Ⅰ.神経剤
Ⅰ.1.サリン(GB)
概要
サリンは、1902年ドイツで神経剤の毒ガスとして開発された有機リン化合物である。アセチルコリンエステラーゼ(以下AChE)の作用を阻害して,神経終末での神経伝達物質であるアセチルコリンの分解を阻害するため,アセチルコリンの過剰刺激様症状(ムスカリン様作用、ニコチン様作用、中枢神経症状)が現れる.特異的な解毒薬として硫酸アトロピンや、パム(以下、PAM)などのオキシム剤が知られる。「サリン」の名称は、ナチスでサリン開発に携わったシュラーダー (Gerhard Schrader)、アンブローズ(Otto Ambros)、リッター(Gerhard Ritter)、フォン・デア・リンデ (Hans-Jürgen von der Linde) の名前から取られた。第一次世界大戦中マスタードガスで負傷したヒトラーは毒ガス使用には消極的で、ドイツ軍はサリンを実戦に使用しなかった。また、同盟国の日本に対してもサリンの製造技術は提供されなかった。1988年、イラン・イラク戦争時、ハラブジャ事件が発生、イラク軍がイラン軍および自国のクルド人に対し毒ガス攻撃を実施、サリンも使用したとされる。1993年にはオウム真理教が合成に成功。サリンを用いて、池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件を起こした。シリア内戦では、2013年にシリアの首都ダマスカス近郊にあるグータに、サリンを搭載したロケットが打ち込まれ死傷者が出た(グータ化学攻撃)。2017年4月にはアサド政権が反政府勢力に対しサリンを使用したとされる(カーン・シェイクン化学兵器攻撃)。国際的には、ジュネーヴ議定書(正式名称;窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)が1925年にジュネーヴで作成され(1928年発効)、サリンの戦争における使用が禁止され、日本も1970年に批准した。日本国内ではオウム真理教による両サリン事件を受けて、サリン等による人身被害の防止に関する法律(平成7年4月21日法律第78号)が施行され、所持や生産などが禁止されている。その後、国際的に化学兵器禁止条約(Chemical Weapons Convention、CWC)が、1993年に署名され(1997年発効)、戦時の使用のみならず、化学兵器の開発、生産、貯蔵も禁止されることとなった。
特性として、強いAChE阻害作用を有する。無色、無臭の液体で神経剤の中では最も気化しやすい。非常に作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。酸または酸性溶液と接触すると、フッ化水素を遊離する。また、加熱すると刺激性のフューム(フッ化物、リンの酸化物)を遊離し、肺水腫を引き起こす。下記の症状の右へ行くほど重症である。縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
Ⅰ.1.1.物性
純粋なものは、常温では無色無臭の液体で、揮発しやすい。
[構造式]
[分子量]140.09
[比重] 1.0887g/mL(25℃)
[沸点] 147℃
[凝固点]-57℃
[蒸気圧]0.38657 kPa(≒2.9 mmHg)(25℃)
[相対蒸気密度]4.86(空気=1)
[揮発度]22,000mg/m3(25℃)
[引火点]可燃性でない。
[溶解性]水1Lに1×106mgが溶解する(25℃)
[反応性]
Ⅰ.1.2.毒性・中毒作用機序・体内動態
毒性
強いAChE阻害作用を有する。無色、無臭の液体で神経剤の中では最も気化しやすい。非常に作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。酸または酸性溶液と接触すると、フッ化水素を遊離する。また、加熱すると刺激性のフューム(フッ化物、リンの酸化物)を遊離し、肺水腫を引き起こす。
[ヒト中毒量]
[ヒト致死量]
神経剤GB(サリン) 107-44-8 | |||||
ppm [mg/m3] | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL1 | 0.0012 | 0.00068 | 0.00048 | 0.00024 | 0.00017 |
(不快レベル) | [0.0069] | [0.0040] | [0.0028] | [0.0014] | [0.0010] |
AEGL2 | 0.015 | 0.0085 | 0.0060 | 0.0029 | 0.0022 |
(障害レベル) | [0.087] | [0.050] | [0.035] | [0.017] | [0.013] |
AEGL3 | 0.064 | 0.032 | 0.022 | 0.012 | 0.0087 |
(致死レベル) | [0.38] | [0.19] | [0.13] | [0.070] | [0.051] |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
中毒作用機序
AChEと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、中毒症状を引き起こす。
AChE阻害作用:
体内動態
[吸収]
[分布]
[排泄]
Ⅰ.1.3.症状
概要
下記症状の右へ行くほど重症。
縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止
診断
詳細症状
(内訳)不整脈40.7%(洞頻脈、洞徐脈、1度房室ブロック、完全右脚ブロック、左軸偏位、右軸偏位)
心筋障害40.7%(左室肥大、右室肥大疑い、非特異的T波変化、左房負荷)その他18.5%(QT間隔短縮、時計方向回転、肢誘導低電位)
重症例は心停止
予後
Ⅰ.1.4. 治療
概要
死亡原因は呼吸不全(中枢抑制、呼吸筋麻痺、気管支痙攣や分泌物による閉塞等
により起こる)であり、呼吸管理が重要である。
ミダゾラムもしくはプロポフォールを麻酔導入剤として使用する。人工呼吸が必要で、筋弛緩剤が必要な時には、神経筋遮断剤スキサメトニウム(サクシニルコリン)の使用は、コリンエステラーゼ阻害剤によってスキサメトニウムの分解が阻害され、呼吸筋麻痺を遷延させるので避ける。十分な補液を行う。
吸入曝露では症状発現は早く、ほとんどの場合、医療機関到着時までに重篤化する。
縮瞳以外の症状がすべて消失するまで、入院・経過観察を行う。
縮瞳はまれに数週間持続することがある。
皮膚曝露の場合、症状発現までにときに10時間以上かかるので、少なくとも10時間は経過観察する。
詳細
呼吸不全を来していないかのチェックとその対応を行う。
医療者は二次汚染を避けるために個人防護装備を着用する。
吐物は密閉容器に入れて然るべき方法で処分する。
汚染された衣類は除去し、有害廃棄物として処理する。
曝露された皮膚、眼は、水で洗浄する。
難治性、再発性の場合、フェノバルビタールまたはフェニトイン等の抗痙攣剤を使用する。
・ホリゾン(R)注射液10 mg(丸石製薬)
・ジアゼパム注射液10 mg「タイヨー」(武田テバファーマ)
ジアゼパムは、痙攣を発症した例のみに使い、痙攣のない症例には使わない。
動脈血ガスをモニターするなど呼吸不全の発生に留意する。
成人:軽症~中等症では2mg(4管)を筋注または静注、
重症では6mg(12管)を筋注。
小児:0.02~0.08mg/kgを筋注または静注
5~10分で効果が得られない場合、2mgを再投与。
脈拍数70/分以上を維持量の基準とする。
脈拍は他の要因の影響をうけるので、神経剤中毒のアトロピン療法の指標には、流涎の消失、皮膚の乾燥、気道内分泌物の低下を用いるべきとの考えもある。
米国では、アトロピンの中枢神経系への効果が薄いため、より中枢神経系への作用が強く、神経剤による痙攣の予防が期待でき、ムスカリン作用を抑制する、スコポラミンをアトロピンと併用することも推奨されている。
可能な限り早期に投与する。眼症状、鼻汁のみの軽症例には投与の適応はない。
広く有機リン中毒の治療薬として使用されているが、用法・用量に関しては、様々な議論があり、合意形成には至っていない。PAM自体にChE阻害作用があるので、必ず、アトロピンを併用する。
PAMヨウ化物として、通常成人1回1gを静脈内に徐々に注射する。
なお、年齢、症状により適宜増減する。
インタビューフォームには次の用法・用量が参考として掲載されている。
初回投与:1~2g(小児では20~40mg/kg)を生食100mLに溶解し、15~30分間かけて点滴静注または5分間かけて徐々に静注する。パム投与初期には呼吸管理を十分に行う。
継続投与:投与後1時間経過しても十分な効果が得られない場合、再び初回と同様の投与を行う。それでも筋力低下が残る時は、慎重に追加投与を行う。0.5g/hrの点滴静注により1日12gまで投与可能。
米軍ではアトロピン(2mg)、PAM塩化物(600mg)の自動注射器を各自3本携帯させ、自己治療・戦友治療に同時使用(筋注)させている。加えて痙攣に対してジアゼパム(10mg)自動注射器1本を携帯させている。現在ではさらに600mgのPAMと2.1mgのアトロピンを一回同時投与できる製剤(DuoDote®)に置き換わっている。
オビドキシム塩化物(OBIDOXIME DICHLORIDE)はPAMより低毒性で代替薬として有効であるが、臨床経験が少ない。サリン、VX、タブンに有効性が高く、ソマンには有効性が低いとされている。しかし、欧州特にドイツでは、PAMよりも有効であるとされている。低用量の投与の場合は、容易に血液脳関門を通過しない。静注による高用量の投与の場合は、血中濃度のピークに達し、また血液脳関門を通過する。250mg静注し、その後時間当たり30mgを持続投与する。
HI-6;オキシム剤として、曝露後治療薬及び予防薬としても最も有望視されている。ただし、タブンやソマンには有効性が低いとされる。
サリン、VXに優れたAChE賦活作用を有する。
カナダ軍では、2010年アトロピンとHI-6(2塩化物)、あるいはHI-6(DMS) の自動注射器を導入しているが、わが国では入手できない。
Hagedorn oxime (HLö-7);最新のオキシム剤。犬や猿の動物実験では、より広い範囲の神経剤に有効であるとされるが、ヒトデータは不足している。
10年ほど前から、ヤギにヒトbutyrylcholinesteraseの遺伝子を導入して乳汁中にヒト butyrylcholinesterase を大量生産し、経静脈投与する技術が開発され、有望視されている。
吐物は密閉容器に入れて注意深く廃棄する。
汚染された衣類は除去し、有害廃棄物として処理する。
液滴汚染部位や露出部は、石鹸と大量の水で洗浄する。
以前は次亜塩素酸塩100~500ppm(0.01~0.05%)液を使用した除染が推奨されていたが、濃度調整の際のミスが起きうることや皮膚が荒れる(生体の防御としての皮膚バリアの破綻を意味する)ため、最近では勧められない。
露出部の皮膚や毛髪はRSDL® (Reactive Skin Decontamination Lotion)でぬぐい取り除染も有効である。
痙攣対応、肺水腫の治療、必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。
アトロピン、PAM等オキシム剤投与、吸入の場合に準じて治療する。
洗浄後に疼痛、腫脹、流涙、羞明等の症状が残る場合、眼科的診察が必要である。
トロピカミド・塩酸フェニレフリン(ミドリン® P点眼液)を点眼、または塩酸シクロペントラート(サイプレジン® 1%点眼液)を点眼する。(アトロピン点眼も良いが、効果が長く、コントロールがつきにくい。)
結膜充血-0.02%フルオロメトロン(フルメトロン® 点眼液0.02%)点眼16)
痙攣対策、肺水腫の治療、必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。
アトロピン、PAM等のオキシム剤投与、吸入の場合に準じて治療する。
Ⅰ.2.ソマン(GD)
概要
ソマンはサリン、タブン、VXと同じく神経剤に分類される化学剤である。その構造から、P-メチルホスホノフルオリド酸 ピナコリル、あるいはIUPAC系統名として P-メチルホスホノフルオリド酸 1,2,2-トリメチルプロピル、と呼ぶこともできる。1944年にドイツの化学者、リヒャルト・クーンによって3番目のG剤として開発され、US code でGDとも呼ばれる。最大の特徴は、結合したアセチルコリンエステラーゼ(以下AChE)が不可逆老化(エージング)する時間が数分と短く、治療薬のPAM使用を数分以内に行わなければならないことになるが、これは事実上不可能である。
無色~茶色がかった液体で、速やかに蒸発する。わずかに果実臭、カンフル臭がある。非常に作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。酸または酸性蒸気と接触すると、フッ化水素を遊離する。また、加熱すると刺激性のフューム(フッ化物、リンの酸化物)を遊離し、肺水腫を引き起こす。以下の症状の右へ行くほど重症である。縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
Ⅰ.2.1.物性
無色液体、わずかな果実臭がある。可燃性あるも、爆発的には燃えない。
サリンに比べると沸点が高く、蒸気圧、揮発度がともに低く、蒸発しにくい。
[構造式]
[分子量]182.19
[比重] 空気より重い
[沸点] 198℃
[凝固点] -42℃
[蒸気圧]0.05332 kPa(≒0.40 mmHg)
[揮発度]3900mg/m3(25℃)
[引火性]可燃性
[溶解性]
[反応性]
[環境汚染の持続時間]
Ⅰ.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
極めて速やかにコリンエステラーゼ阻害作用が発現する。
ソマン、サリン、タブン等の神経ガスは毒性が強く、実験動物にはmg以下の量で致死的となる。ソマンはVXより毒性は低いが、サリン、タブンより毒性は強く、1滴で致死的である。
皮膚、眼に対して浸透による強い作用を示す。
酸または酸性蒸気と接触すると、フッ化水素を遊離し、フッ化水素中毒を引き起こす可能性がある。
加熱すると分解し、刺激性のある有毒フューム(フッ化物;F-、リン酸化物;POx)を発生 する。
[ヒト中毒量]
[ヒト致死量]
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
神経剤GD(ソマン) 96-64-0 | |||||
ppm [mg/m3] | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | 0.00046 | 0.00026 | 0.00018 | 0.000091 | 0.000065 |
(不快レベル) | [0.0035] | [0.0020] | [0.0014] | [0.00070] | [0.00050] |
AEGL 2 | 0.0057 | 0.0033 | 0.0022 | 0.0012 | 0.00085 |
(障害レベル) | [0.044] | [0.025] | [0.018] | [0.0085] | [0.0065] |
AEGL 3 | 0.049 | 0.025 | 0.017 | 0.0091 | 0.0066 |
(致死レベル) | [0.38] | [0.19] | [0.13] | [0.070] | [0.051] |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
中毒作用機序
AChEと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、中毒症状を引き起こす。
AChEの活性部位に結合し、酵素を阻害する。
ソマンはタブン、サリンに比べてAchE阻害作用が最も強い。(マウス)
エージング半減期:ソマン;約2分
サリン;約5時間
タブン;40時間以上
VX;40時間以上
体内動態
[吸収]
[分布]
[排泄]
Ⅰ.2.3.症状
神経剤共通の症状を示す。
詳細はサリンのⅠ.1.3項を参照。
Ⅰ.2.4.治療
神経剤共通の治療方針となる。ただし、エージングが早いため、PAMなどのオキシム剤はほとんど効果を期待できない。
詳細はサリンのⅠ.1.4項を参照。
Ⅰ.3.タブン(GA)
概要
タブンはサリン、ソマンやVXと同じく神経剤に分類される化学剤である。1936年にドイツで開発された神経ガス(nerve agent)で、第二世代(第一次世界大戦で製造・使用された毒ガスが第一世代)の毒ガスである。1938年にサリン、1944年にソマンがドイツで合成されたため、German gasの頭文字をとってG剤と呼ばれ、開発順にGA、GB、GDというコードネーム US Code がつけられた。「タブン」という名称は、タブンがドイツ軍の正式兵器として採用される以前、Le-100という名称で研究されていた際に、Le-100の効果を検討する会議に出席したあるドイツ軍人がその毒性の強さに「これはタブーだ」とコメントしたことによる。イラン・イラク戦争で1983年にイランがはじめてタブンを使用した。強いアセチルコリンエステラーゼ(以下AChE)阻害作用を有する無色~茶色がかった液体または無色の蒸気で、わずかに果実臭がある。非常に作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。水または酸と接触すると、シアン化水素を遊離する。漂白剤(さらし粉)によって分解し、塩化シアンを発生する。また、加熱するとシアンやリンの酸化物である刺激性のフュームを遊離し、肺水腫を引き起こす。臨床症状は重症の有機リン剤中毒に準じ、治療もそれと同様に硫酸アトロピンやプラリドキシム(以下PAM)を投与する。以下の症状の右へ行くほど重症である。縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
Ⅰ.3.1.物性
茶色がかった無色の液体で、蒸気は無色である。不純物が微量存在するとかすかな果実臭(ビターアーモンド様)がある(純粋なものは無臭、無色)。蒸気圧、揮発度がともに低く、蒸発しにくい。熱すると発生する蒸気は空気と混ざると爆発の可能性ある。同様に容器が熱せられると爆発の可能性がある。
[構造式]
[分子量]162.12
[比重]1.073(空気より重い)
[沸点]150℃で約3時間後に完全分解
[凝固点]-50℃
[蒸気圧]0.009331 kPa(≒0.07 mmHg)
[相対蒸気密度]5.63(空気=1)
[揮発度]610mg/m3(25℃)
[溶解性]水に溶け、速やかに加水分解する。
[反応性]
水または酸と接触すると、シアン化水素を遊離する。
漂白剤(さらし粉)によって分解し、塩化シアンを発生する。
加熱すると分解し刺激性のある有毒フューム(POx、CN-、NOx)を発生する。
水中半減期;25℃ 175分、20℃ 267分、15℃ 475分
99.9%分解されるのに要する時間は、海水中で45時間、蒸留水中で22時間
VXを除く神経剤は数時間にわたって蒸発、分散するので、環境では通常、非持続性と考えられている。
タブンを土壌表面に適用する野外実験で、1.71時間で適用量の50%、4.66時間で90%が大気中に蒸発した。
大気中では蒸気相に存在し、水酸基ラジカルによって光で分解される。
大気中推定半減期;4.8時間
Ⅰ.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
極めて速やかにAChE阻害作用が発現する。タブンはパラチオンより毒性が強い。吸入曝露時が特に毒性が強いが、経口摂取、経皮、眼に入った場合も吸収されて毒性を示す。皮膚に対してタブン蒸気は容易には浸透しないが、液体は非常に速やかに浸透する。水または酸と接触すると、シアン化水素を遊離する。漂白剤(さらし粉)によって分解し、塩化シアンを発生する。加熱すると分解し、刺激性のある有毒フューム(POx、CN-、NOx) を発生する。
[ヒト中毒量]
[ヒト致死量]
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
神経剤GA(タブン) 77-81-6 | |||||
ppm [mg/m3] | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | 0.0010 | 0.00060 | 0.00042 | 0.00021 | 0.00015 |
(不快レベル) | [0.0069] | [0.0040] | [0.0028] | [0.0014] | [0.0010] |
AEGL 2 | 0.013 | 0.0075 | 0.0053 | 0.0026 | 0.0020 |
(障害レベル) | [0.087] | [0.050] | [0.035] | [0.017] | [0.013] |
AEGL 3 | 0.11 | 0.057 | 0.039 | 0.021 | 0.015 |
(致死レベル) | [0.76] | [0.38] | [0.26] | [0.14] | [0.10] |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
中毒作用機序
ChEと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、中毒症状を引き起こす。
体内動態
[吸収]
経口摂取時は消化管からも吸収される。
[分布]
[代謝]
[排泄]
Ⅰ.3.3中毒症状
神経剤共通の症状を示す。
詳細はサリンのⅠ.1.3項を参照。
Ⅰ.3.4.治療
神経剤共通の治療方針となる。
詳細はサリンのⅠ.1.4項を参照。
Ⅰ.4.VX
概要
VXはサリン、タブン、ソマンと同じく、神経剤に分類される化学剤である。1952年にラナジット・ゴーシュ (Ranajit Ghosh) によってイギリスのポートンダウン(Porton Down)にある政府研究施設で開発された第三世代(第一次世界大戦で製造・使用された毒ガスが第一世代、1930~1940年代にドイツで開発されたタブン、サリン、ソマン等のG剤が第二世代の毒ガスである)の毒ガスである。米国では1959年にVXの工場がつくられ、1961年に生産開始、1969年に生産が中止されるまでに数万トンが生産されたといわれている。日本で1994~1995年にオウム真理教の犯行グループが個人のテロのためVXを使用した。最近では、2017年2月に金正男とされる人物が暗殺された手段がバイナリーのVXであるとされた。このほか、使用法としては、通常の砲弾、ロケット弾に充填して、航空機からエアロゾルの形で散布されたり、ミサイルの化学弾頭に詰められたりもする。粘度が高いため、溶剤(n-ヘキサン等)に溶かして散布することもある(オウム真理教の犯行グループは注射器に詰めて対個人的に使用した)。
強いアセチルコリンエステラーゼ(以下、AChE)阻害作用を有し、神経剤の中で最も毒性が強い。無色~琥珀色、無臭の油状液体で、揮発しにくい。非常に作用が速く、特に皮膚曝露によって全身症状を呈する。他の神経剤よりも環境汚染が持続し、毒ガスとしての作用が長く持続する。臨床症状は重症の有機リン剤中毒に準じ、治療もそれと同様に硫酸アトロピン、プラリドキシム(以下PAM)を投与する。下記の症状の右へ行くほど重症であるとされる。縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止。 二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
Ⅰ.4.1.物性
無色無臭の液体(20℃)で、極めて揮発しにくい。散布後有毒ガスを何日間も放出し続ける能力および持続性のある、「戦場で効率的に配備できて最大の効果をもたらし、敵に利をもたらさない」(“terrain denial”)軍事化学物質である。 条件によっては、環境汚染が4ヶ月以上持続する。V剤は特にアルカリ溶液中でサリンよりも加水分解に対して抵抗性がある。
[構造式][分子量]236.44
[比重]1.0083g/mL(25℃)
[沸点]298℃(計算値)
[凝固点]<-51℃
[蒸気圧]9.3325 kPa(≒0.0007mmHg) (25℃)
[相対蒸気密度]9.2(空気=1)
[揮発度]10.5mg/m3 (25℃)、揮発しにくい。揮発に必要な時間;1800秒
[反応性]加熱すると分解し、有毒フューム(SOx、NOx)を発生する。
[環境汚染の持続時間]
地面汚染によって予想される有害作用の持続時間:
気温15℃、晴れで、微風のある日;3~21日
気温-10℃、晴れで、風がなく、雪が降っている日;1~16週間
Ⅰ.4.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
極めて速やかにコリンエステラーゼ阻害作用が発現する。阻害作用はサリンよりも強い。赤血球ChE(真性コリンエステラーゼ)を阻害する。化学兵器の中で最も毒性が高い。VXは皮膚からきわめてよく吸収され、皮膚曝露ではサリンの約100倍の毒性を示す。揮発しにくいが温度が高いと蒸気吸入曝露が起こり、サリンの約3倍の毒性を示すと推定される。VXは他の神経ガスよりも環境汚染が持続する。加熱すると分解し、有毒フューム(SOx、NOx)を発生する。
[ヒト中毒量]
(ガス)1.10×10-5mg・分/m3 (米軍)
経口ヒト;TDLo:4μg/kg 悪心、嘔吐、消化管運動亢進、下痢
筋注ヒト;TDLo:3200ng/kg 視野変化、傾眠、悪心、嘔吐
皮下注ヒト;TDLo:30μg/kg 頭痛、悪心、嘔吐
静注ヒト;TDLo:♂1500ng/kg 幻覚、認識力低下、悪心、嘔吐
軍用有効濃度(または不能量):>0.5mg・分/m3
半数不能量:50mg・分/m3
地面がVX 0.5~5mg/m2で汚染されると、個人防護装備や除染なしでは極度に危険である。
[ヒト致死量]
吸入ヒト推定致死量:(ガス)0.1mg・分/m3
静注ヒト;LD50:0.008mg/kg
筋注ヒト;LD50:0.012mg/kg
経皮ヒト;LD50:0.315mg/kg
経皮ヒト推定半数致死量(LD50):(液体)6mg/人、6~10mg/人
(V剤)経皮ヒト推定致死量:(液体)♂2~10mg
吸入ヒト推定致死量:(エアロゾル)♂5~10mg・分/m3
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
神経剤VX 50782-69-9 | |||||
ppm [mg/m3] | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | 0.000052 | 0.000030 | 0.000016 | 0.0000091 | 0.0000065 |
(不快レベル) | [0.00057] | [0.00033] | [0.00017] | [0.00010] | [0.000071] |
AEGL 2 | 0.00065 | 0.00038 | 0.00027 | 0.00014 | 0.000095 |
(障害レベル) | [0.0072] | [0.0042] | [0.0029] | [0.0015] | [0.0010] |
AEGL 3 | 0.0027 | 0.0014 | 0.00091 | 0.00048 | 0.00035 |
(致死レベル) | [0.029] | [0.015] | [0.010] | [0.0052] | [0.0038] |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
中毒作用機序
AChEと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、中毒症状を引き起こす。
AChEの活性部位に結合し、酵素を阻害する。
VXのAChE阻害作用はサリンよりも強い。
エイジング半減期:VX;40時間以上
(ソマン;約2分、サリン;約5時間、タブン;40時間以上)
体内動態
[吸収]
(神経剤)肺、皮膚、結膜から速やかに吸収される。
経口摂取時は消化管からも吸収される。
[代謝]
Ⅰ.4.3.症状
概要
以下のような有機リン剤と同様の中毒症状が出現する。
ニコチン様症状:筋肉の痙攣、硬直、虚脱、麻痺、頻脈、血圧上昇、呼吸麻痺
中枢神経症状:不安、興奮、不眠、悪夢
中枢神経系抑制、混乱、せん妄、頭痛、昏睡、痙攣
皮膚曝露時:皮膚から極めてよく吸収され、急速に症状が発現する。少量の場合、曝露部位のみ、筋線維束性攣縮、発汗を認めることがある。
多量では、次いで嘔気、嘔吐、下痢などの消化器症状、全身発汗、倦怠感がみられることがある。極めて大量または致死量に近い量では、10~30分の無症状期のあとに突然、意識消失、痙攣、弛緩
性麻痺、無呼吸を起こす。
蒸気曝露時:低濃度の蒸気曝露で、数秒~数分の間に、縮瞳、視覚障害、鼻汁過多、呼吸困難を来す。
高濃度の蒸気では1~2分で意識を消失し、その後、痙攣、弛緩性麻痺、無呼吸を来す。縮瞳、流涙、流涎、鼻汁や気道内分泌物の過剰分泌もあり、発汗、筋線維束性攣縮、尿失禁などがおこる。
詳細症状
(1)神経症状
(2)呼吸器系症状
(3)循環器系症状
(4)消化器系症状
(5)泌尿器系症状
(6)その他:
外眼筋間代性痙攣(斜視または眼振様痙攣)
羞明;時に数ヵ月続くことがある。
最重症では散瞳
慢性視力低下
血清CPKの上昇;重症例では高値
血液や尿の検体や患者に残された爆弾の破片等異物、除染廃液等は、確定診断のみならず捜査上も重要であるので、余裕がある限り、検体の確保と保存に努める
予後
Ⅰ.4.4.治療
概要
VXは皮膚から吸収されやすいので、汚染部位の除染は至急行う。
アトロピンはムスカリン様症状のコントロールには有効で、ジアゼパムは痙攣等の中枢神経症状を制御するために使用できる。
PAMはVXには有効性が高い。VXではサリン、ソマンに比べて、エイジングはゆっくりと起きる。動物で曝露後48時間までPAM治療による酵素賦活が有効であった。
エイジング半減期:VX;40時間以上
(タブン;40時間以上、ソマン;約2分、サリン;約5時間)
VXの曝露を受けても皮膚の局所症状は出現しないため、気付かれないことが多く、脳血管障害と誤診されることがある。そのため診断が遅れることが多い。
血漿・赤血球コリンエステラーゼの低下、重症例では低下が著しい。
血液、衣服、さらに土や水等の一般環境からのVXまたはその代謝産物である。
メチルホスホン酸エチルやメチルホスホン酸の検出が診断に有用である。
弛緩剤が必要な時には、神経筋遮断剤スキサメトニウム(サクシニルコリン)の使用は、コリンエステラーゼ阻害剤によってスキサメトニウムの分解が阻害され、呼吸筋麻痺を遷延させるので避ける。ジアセパムかチオペンタールを麻酔導入剤として使用する。十分な補液を行う。
縮瞳はまれに数週間持続することがある。
詳細
吐物は密閉容器に入れて注意深く廃棄する。
汚染された衣類は除去し、有害廃棄物として処理する。
曝露された皮膚、眼は、水で洗浄する。
以前は次亜塩素酸塩100~500ppm(0.01~0.05%)液を使用した除染が推奨されていたが、濃度調整の際のミスが起きうることや皮膚が荒れる(生体の防御としての皮膚バリアの破綻を意味する)ため、最近では勧められない。
露出部の皮膚や毛髪は商品化されたRSDL® (Reactive Skin Decontamination Lotion)でぬぐい取り除染を行う。
(2)対症療法
難治性、再発性の場合、フェノバルビタールまたはフェニトイン
等の抗痙攣剤を使用する。
動物ではジアゼパムよりミダゾラムが効果的であった。
ジアゼパムは、痙攣を発症した例のみに使い、痙攣のない症例には使わない。
動脈血ガスをモニターするなど呼吸不全の発生に留意する。
リン等の気管支拡張薬を使用する。
(3)特異的処置
成人:軽症~中等症では2mg(4管)を筋注または静注、重症では6mg(12管)を筋注。
小児:0.02~0.08mg/kgを筋注または静注
追加投与:5~10分で効果が得られない場合、2mgを再投与。
脈拍数70/分以上を維持量の基準とする。
脈拍は他の要因の影響をうけるので、神経剤中毒のアトロピン療法の指標には、流涎の消失、皮膚の乾燥、気道内分泌物の低下を用いるべきとの考えもある。
米軍使用の自己注射AtroPen(R)はアトロピン2mg/本含有
可能な限り速やかに筋注する。神経剤に曝露され、症状のある患者には、全て適応となる。可能な限り早期に投与する。
用法・用量に関しては様々な議論があり、合意形成には至っていない。
PAMヨウ化物として、通常成人1回1gを静脈内に徐々に注射する。
なお、年齢、症状により適宜増減する。
インタビューフォームには次の用法・用量が参考として掲載されている。
初回投与:1~2g(小児では20~40mg/kg)を生食100mLに溶解し、15~30分間かけて点滴静注または5分間かけて徐々に静注する。パム投与初期には呼吸管理を十分に行う。
継続投与:投与後1時間経過しても十分な効果が得られない場合、再び初回と同様の投与を行う。それでも筋力低下が残る時は、慎重に追加投与を行う。0.5g/hrの点滴静注により1日12gまで投与可能。
米軍ではアトロピン(2mg)、PAM塩化物(600mg)の自動注射器を各3本/人を携帯させ、自己治療・戦友治療に同時使用(筋注)させている。さらに痙攣に対してジアゼパム(10mg)自動注射器1本を携帯させ、アトロピン投与後に使用させている。現在ではさらに600mgのPAMと2.1mgのアトロピンを一回同時投与できる製剤(DuoDote®)に置き換わっている。
オビドキシム塩化物(OBIDOXIME DICHLORIDE)はPAMより低毒性で代替薬として有効であるが、臨床経験が少ない。サリン、VX、タブンに有効性が高く、ソマンには有効性が低いとされている。しかし、欧州特にドイツでは、PAMよりも有効であるとしている。低用量の投与の場合は、容易に血液脳関門を通過しない。静注による高用量の投与の場合は、血中濃度のピークに達し、また血液脳関門を通過する。
250mg静注または筋注1回投与(中等症)、もしくは初回250mg静注または筋注1回
HI-6;オキシム剤として、曝露後治療薬及び予防薬としても最も有望視されている。VXに優れたAChE賦活作用を有する。
カナダ軍では、2010年アトロピンとHI-6(2塩化物)、あるいはHI-6(DMS) の自動注射器を導入しているが、わが国では入手できない。
Hagedorn oxime (HLö-7) ;最新のオキシム剤。犬や猿の動物実験では、より広い範囲の神経剤に有効であるとされるが、ヒトデータは不足している。
10年ほど前から、ヤギにヒトbutyrylcholinesteraseの遺伝子を導入して乳汁中にヒト butyrylcholinesterase を大量生産し、経静脈投与する技術が開発され、有望視されている。
*経皮の場合
吐物は密閉容器に入れて注意深く廃棄する。
汚染された衣類は除去し、有害廃棄物として処理する。
石鹸と大量の水で洗浄する。
以前は次亜塩素酸塩100~500ppm(0.01~0.05%)液を使用した除染が推奨されていたが、濃度調整の際のミスが起きうることや皮膚が荒れる(生体の防御としての皮膚バリアの破綻を意味する)ため、最近では勧められない。
露出部の皮膚や毛髪は商品化されたRSDL® (Reactive Skin Decontamination Lotion)でぬぐい取り除染を行う。
痙攣対策、肺水腫の監視他、必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。
アトロピン、PAM等オキシム剤投与、吸入の場合に準じて治療する。
*眼に入った場合
洗浄後に疼痛、腫脹、流涙、羞明等の症状が残る場合、眼科的診察が必要。
(アトロピン点眼も良いが、効果が長く、コントロールがつきにくい。)
(痛みや暗さ等を訴えなければ、対光反応が戻るまで経過観察を行う)。
*経口の場合
B.胃洗浄:気道確保、痙攣対策を行った上で実施する。
C.活性炭・下剤投与
痙攣対応、肺水腫の治療他、必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。
アトロピン、PAM等オキシム剤投与、吸入の場合に準じて治療する。
II.びらん剤
II.1.マスタード(H,精製マスタード:HD)
概要
マスタードは、皮膚、眼及び呼吸器に作用し、接触部位をびらんさせる化学剤である。1859年にドイツのニーマンにより合成された。第一次世界大戦中にイープル戦でドイツ軍により初めて使用され、それにちなんでイペリット(Yperite)とも呼ばれる。硫黄を含むことから、サルファマスタード(Sulfur mustard gas)、硫黄マスタードとも呼ばれる。硫黄マスタードは、約30%の硫黄化合物(ほとんどが硫酸)を含んでいるが、蒸留により製造されたものはほとんど不純物を含まず、精製マスタードと言われている。マスタードは、1925年ジュネーブ議定書により戦時使用禁止が決議された(日本は1970年に批准) 。
旧日本陸軍では、1931年(昭和6年)に「きい一号(甲)、(乙)」として、1936年(昭和11年)に「きい一号(丙)」として武器として採用され、広島県大久野島で大量に生産された経緯がある。一方、旧海軍では「三号特薬甲」と呼称され、さがみ海軍工廠において製造された。
第二次世界大戦では実戦に使用されなかったが、1943年12月2日、イタリアの連合国側の重要補給基地であるバーリ港でドイツ軍は、輸送船・タンカーを始めとする艦船16隻を沈没させた。その際、アメリカ海軍リバティー型輸送船「ジョン・E・ハーヴェイ号」には大量のマスタードが積まれており、漏れたマスタードが輸送船から出た油に混じったため、救助された連合軍兵士たちは大量のマスタードに曝露した。翌朝、兵士たちは目や皮膚を侵され、重篤な患者は血圧の低下などを経て白血球値が大幅に減少し、結果、被害を受けた617人中83名が死亡した。一日あたりの死者の数を見ると、被害後2日目、3日目に最初のピークを迎え(マスタードによる直接の死者)、8日、9日後に再度ピーク(白血球減少症による感染症)を迎えた。この事件によりマスタードがX線同様に突然変異を引き起こす可能性が高いと考え、当時はX線照射療法しかなかった悪性リンパ腫の治療にマスタードが試みられた。第二次大戦中、大量に製造・貯蔵されて海洋等に投棄されたので、漁師等が曝露される事故が発生している。米国では現在は製造されていない(EPA,1985年)。数カ国は現在も大量に保有しており、事故または意図的使用による危険性が懸念されている。アルキル化剤として生物実験に少量使用される。2,2′-チオジエタノール(マスタードの前駆体)は一部の国を除いて輸出禁止となっている。
最近では1984年にイラン・イラク戦争の際に、イラク軍が使用した。2015年8月には、ISIS(Islamic State of Iraq and Syria)によるイラクでの使用が疑われている。マスタードに曝露する経路は、眼粘膜、皮膚、経気道曝露が多いが、飲食物がマスタードに汚染されていた場合は、経口により中毒となる。マスタードによる被災者の予後は、マスタードに曝露してから除染するまでの時間に依存する。特異的解毒剤はなく、対症療法が主となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
びらん剤のなかで、接触時に痛みを生じないのはマスタードだけである。他のびらん剤(ルイサイトやホスゲンオキシムなど)では痛みを伴うため、自ずと防御行動がとりやすくなるが、マスタードによる病変はより重症化しやすい。マスタードの皮膚病変は、ルイサイトのそれと異なり、水疱の周囲に紅斑を伴う。しかし、それだけでは実際の鑑別は不能である。
II.1.1.物性
常温では無色の液体。通常不純物が含まれていることが多く、黄色~暗褐色を帯び、チョコレートスプレッド状と表現される。からし、またはにんにくに似た特有の臭気を有する。精製マスタード(HD)は、臭気は少ない。人体だけでなくゴム、皮、木等の透過性も高い。
[構造式]
[分子量]159.08
[比重]
[pH]データなし
[沸点]217℃(分解)、227℃
[凝固点]14.45℃
[相対蒸気密度]
[蒸気圧]
[揮発度]630mg/m3(20℃)
[引火性]引火点105℃ 、燃焼性がある
[溶解性]
油脂、ガソリン、灯油、アセトン、アルコールによく溶ける。
水中で緩徐に加水分解され塩酸とチオジグリコールを生じる。
塩水中では加水分解が遅延する。
[反応性]
アルカリ化、高温では加水分解速度が増加する。
加熱または酸により分解し、毒性の強い硫化物、塩化物のフュームが発生する。
次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)、次亜塩素酸ナトリウム、クロラミンで不活化される。(水で徐々に加水分解され、次亜塩素酸カルシウムにより速やかに酸化され毒性の低いスルフォキシドとなるが、この反応は条件によっては不完全で、1952年にドイツで事故の際に土壌を水と次亜塩素酸カルシウムで繰り返し十分に処理したが、2週間後も微量検出された。)
土壌中:主に蒸発、加水分解により消失し、一部は浸透する。汚染された地面との接触または蒸発により被害を与えうる時間は、以下の気象条件下では次のように推定される。
気温-10℃、晴、無風、積雪:2-8週間
気温0℃:50-92日
気温10℃、雨、中程度の風速:12-48時間
気温15℃、晴、微風:2-7日
気温25℃:31-51時間
地中に大量に埋めた場合は、何十年も残存する可能性がある。
水中:半減期:5分(37℃)
低濃度では、迅速に加水分解される。
高濃度では、1.75時間(0℃)、4分(25℃)、43秒(40℃)
加水分解速度は速いが、水に難溶のため、水に溶けない部分がより長く残存する可能性がある。水中に大量に放棄した場合、水より重いので底に沈み、分解速度は溶解の程度(マスタードの表面積、水流、温度等により異なる)に依存する。水温が14.4℃以下であれば固体となり、溶解に数ヵ月~何年も要することがある。海水中に溶けだしたマスタードの分解半減期は15分(25℃)~175分(5℃)である。
II.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
マスタードは人体を構成する蛋白質やDNAに対して強く作用することが知られており、蛋白質やDNAの窒素と反応(いわゆるアルキル化反応)し、毒性を呈する。このため、皮膚や粘膜などに作用すると共に、細胞分裂の障害を引き起こし、遺伝子を傷つけ、発癌性を持つ。また、抗がん剤と同様の作用機序であるため、造血器や腸粘膜にも影響が出る。
毒性
[ヒト中毒量]
経口ヒト;LD50:0.7mg/kg
眼:最小中毒量(Ct):12~70 mg・分/ m3
皮膚ヒト;65μgで皮膚刺激を生じる。
皮膚ヒト;LD50:100mg/kg
皮膚:最小中毒量(Ct):200mg・分/m3 (但し、気温、湿度、皮膚の湿り気、曝露部位による)
10μgの液体曝露でも水疱を生じることがある。
臭気閾値:0.03mg/L、0.015mg/m3
一般的に中毒濃度では臭気を感知できるが、訓練を受けていないヒトは気づかないこともある。
[曝露量と生体への効果]
皮膚 >200 4-8時間 紅斑、掻痒、知覚過敏
1000-2000 3-6時間 紅斑、水疱形成
10000 1-3時間 紅班
眼 <12 数時間-数日 発赤
50-100 4-12時間 結膜炎、異物感、流涙、羞明
200 3-12時間 角膜混濁(潰瘍)、眼瞼浮腫、
羞明
呼吸器 33-70 12時間-2日 鼻粘膜刺激
133-600 4-6時間 上気道:咽頭痛、鼻汁、嗄声
下気道:咳、発熱
1000-1500 4-6時間 気道浮腫、肺炎、ARDS
[発癌性]
肺がん発生率は、第一次世界大戦での曝露者や第二次世界大戦中に工場で曝露した労働者では増加が認められている。
[ヒト致死量]
吸入ヒト;LCLo:23ppm/10分
経皮ヒト;LDLo:60-64mg/kg/1時間
経皮ヒト;LD:4500mg/人(推定)
皮下ヒト;LDLo:5mg/kg
死亡者数:第一次世界大戦での曝露患者12万人中2~3%。イラン・イラク戦争では3~4%。
死因は通常、呼吸不全または骨髄抑制による。
硫黄マスタード 505-60-2 | |||||
ppm [mg/m3] | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | 0.060 | 0.020 | 0.010 | 0.0030 | 0.0010 |
(不快レベル) | [0.40] | [0.13] | [0.067] | [0.017] | [0.0083] |
AEGL 2 | 0.090 | 0.030 | 0.020 | 0.0040 | 0.0020 |
(障害レベル) | [0.60] | [0.20] | [0.10] | [0.025] | [0.013] |
AEGL 3 | 0.59 | 0.41 | 0.32 | 0.080 | 0.040 |
(致死レベル) | [3.9] | [2.7] | [2.1] | [0.53] | [0.27] |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
液体または蒸気が接触すると皮膚から吸収される。
吸収速度(蒸気)1.4μg/cm2/分(21℃)、2.7μg/cm2/分(31℃)
(液体)2.2μg/cm2/分(16℃)、5.5μg/cm2/分(39℃)
経皮吸収されたうちの10%は吸収部位の脂肪組織に蓄積する。
[分布]
(水疱中の液に眼や皮膚が接触しても毒作用を生じない)
剖検例での組織内濃度は以下の順である。
脂肪>皮膚(含皮下脂肪)>脳>腎>筋>肝>髄液>脾臓>肺
[排泄]
II.1.3.症状
概要
中等症 3~6時間後 発赤、眼瞼腫脹、疼痛
重症 1~2時間後 著明な眼瞼腫脹、疼痛、角膜傷害
気道:軽症 6~24時間後 鼻汁、くしゃみ、鼻出血、嗄声、乾性咳嗽
重症 2~6時間後 重度の咳嗽、軽~重度の呼吸困難
皮膚:軽症 2~24時間後 紅斑、水疱
重症 2~12時間後 紅斑、水疱
詳細症状
会陰部、腋窩、頸部等温かく、湿潤な部位は障害を受けやすい。
はじめに紅斑が出現し、紅斑部位は知覚過敏、軽い灼熱感、浮腫を伴う。表皮下層の液状化壊死が進んで、浸出液が貯留し水疱を形成するが、水疱内浸出液は24時間後には凝固するため、ドレナージを妨げ、治癒を遅延させる。
組織学的変化は曝露後3-6時間で始まり、基底の有棘細胞(ケラチノサイト)の核濃縮、基底細胞の変性、細胞内・外の空胞形成、基底細胞層の壊死、表皮の剥離へと進行する。
反復曝露により皮膚が感作されることがある。
蕁麻疹を生じ、色素沈着、落屑を残す。
小児では、成人よりも皮膚障害が出現する時間が早く、症状もより重かった(イラン・イラク戦争時の曝露者に関する報告による)。
角膜びらん、潰瘍を伴う眼病変は、その程度により、眼の異物感、刺激、流涙、羞明、霧視、眼瞼痙攣、眼瞼浮腫等の症状が数ヵ月以上にわたって軽快、再燃を繰り返すことがある。重症では失明に至る。
潰瘍、変質した障害部位の角膜炎が40年にもわたって再発することがある。
咽頭炎の症状が1~2日間続いて気管支炎に移行する。
重症の場合は、肺水種、無気肺に二次感染として気管支肺炎を合併し、発熱、喀痰の増加等とともに低酸素血症が出現する。肺水腫に陥って死亡することもある。
骨髄やリンパ組織の形成不全に基づく汎血球減少症やリンパ球減少症を起こす。
白血球増多の後、3~5日後から白血球が減少し、約10日後に最低値となる。白血球数500以下は予後不良である。
血小板減少性紫斑病となることもある。赤血球減少はまれである。
高濃度曝露によるがん化や骨髄抑制などから、radiation mimetic (放射線と紛らわしい)と言う表現がなされる。
予後
曝露8~13年後の調査で、傷害部位の神経学的異常(刺すような痛み、灼熱感、痒み等)、色素沈着等が認められた。
曝露16~20年後の40名への調査では、35名に皮膚の合併症が認められた。症状発現率は、そう痒感65%、色素沈着症55%、紅斑性丘疹42.5%、皮膚乾燥40%、多発性さくらんぼ状血管腫37.5%、萎縮27.5%、色素脱失症25%、灼熱感20%、脱毛10%、湿疹7.5%、肥厚性瘢痕2.5%であった。
曝露16~20年後の40名への調査では、39名に眼の合併症が認められた。発現率は、そう痒感42.5%、灼熱感37.5%、羞明30%、流涙27.5%、読字困難10%、充血10%、眼痛2.5%、異物感2.5%であった。また、慢性結膜炎が17.5%に認められ、角膜縁周囲色素沈着17.5%、血管蛇行15%、角膜壁厚減少15%、角膜縁虚血12.5%、角膜混濁10%、角膜血管新生7.5%、角膜上皮性欠損5%であった。
曝露16~20年後の40名(平均年齢43.8歳±9.8歳)への調査(イラン-イラク戦争でマスタードに曝露した退役軍人への調査)では、40名全員に呼吸器系症状が認められた。発現率は、咳100%、痰100%、呼吸困難85%、喀血60%、喘鳴95%、握雪音50%、狭窄音10%、軽度の低酸素血症67.5%、中等度の低酸素血症27.5%であった。マスタード生産工場の労働者に肺癌(扁平上皮癌、未分化癌が多い)の発生や、血液検査で染色体異常が多く認められた。
曝露16~20年後の40名への調査は、40名全員に神経系症状が認められた。運動神経障害の発現率は、左の脛骨神経37.5%、右の脛骨神経35%に、左の腓骨神経12.5%、右の腓骨神経20%であった。感覚神経障害の発現率は、左の脛骨神経75%、右の腓骨神経72.5%であった。
曝露16~20年後の40名(平均年齢43.8歳±9.8歳)の免疫等に関する検査値を健康成人35名(患者と同年代)と比較した調査では、WBC、RBC、ヘマトクリット、IgM、C3の値は、顕著に上昇していた。また、単球と CD3+リンパ球(成熟Tリンパ球総数)の割合(%)は顕著に増加しており、CD16+56陽性細胞(NK細胞)の割合(%)は顕著に低下していた。なお、WBC値の上昇は慢性気管支感染症によるものであり、赤血球数増加とヘマトクリット値の上昇は気管支障害により二次的に惹起された慢性低酸素症によるものと考えられている。
II.1.4.治療
概要
詳細
*眼に入った場合
局所麻酔剤の使用は好ましくない。
羞明が強い場合は暗い部屋に収容するかサングラスを使用。
眼帯は圧迫により眼瞼を癒着することがあるので使用しない。
*吸入の場合
曝露後15分以内であれば、2.5%チオ硫酸ナトリウム液のネブライザー投与が中和に効果がある可能性がある。
呼吸循環管理
*経口の場合
痙攣対策をとった上で施行する。
II.2.ルイサイト(L)
概要
ルイサイト (Lewisite)は、アダムサイトなどと同じく有機ヒ素化合物であり、びらん剤として用いられる。ルイサイトは即効性があるため、遅効性のマスタードと組み合わせてマスタード-ルイサイトとして使うことがある。
旧日本陸軍は、1931年(昭和6年)に「きい二号」として武器として採用した。また、マスタードにルイサイトを1:1の割合で混合し、化学弾頭に充填している。この組み合わせは、当時ソビエトを仮想敵国としていた旧陸軍が、寒冷地使用を考えた場合にマスタード単独だと凍るので、ルイサイトを凍らない様にいわば、凝固点降下剤として混ぜたとされる。一方、旧海軍では「三号特薬乙」と呼称した。
第一次世界大戦前にドイツでも開発されていたが、1918年に米軍のルイス大尉が合成法を確立したので、「ルイサイト」と呼ばれている。1925年ジュネーブ議定書により戦時使用禁止が決議された(日本は1970年に批准)。
ルイサイトは、マスタードよりも皮膚からの吸収はよいが、毒性はほぼ同等である。ルイサイトは、マスタードと異なり曝露直後から症状があるので、何らかの対処がされるが、吸収されるとヒ素中毒に陥る。対症療法が主となるが、ヒ素中毒に対しては特異的解毒剤(British Anti-Lewisite: BAL)の投与を行う。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
II.2.1.物性
褐色~黒色の油性液体。純品は無色。刺激のある果実臭ないしゼラニウム臭、西洋ワサビ臭を有する。マスタードより揮発しやすい。
[構造式]
[分子量]207.31
[比重]1.888(20℃/4℃)
[沸点]190℃
[凝固点]-13℃
[蒸気圧]
[蒸気密度]7.15(空気=1)
[揮発度]4480 mg/m3(20℃)
[溶解性]水、希鉱酸に不溶、有機溶剤に可溶。
[反応性]
水中:水分で速やかに加水分解される。
土壌中:土壌表面の部分は蒸発する。
II.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
ルイサイトは、マスタードよりも皮膚からの吸収はよいが、毒性はほぼ同等である。吸収されるとヒ素中毒に陥る。
毒性
[ヒト中毒量]
0.001 mLでも穿孔や失明を起こすことがある。
経皮:0.5 mLの付着で全身症状を生じ、2 mLでは致死的となる。
[ヒト致死量]
吸入;最小致死量(LCLo):6 ppm/30分
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
ルイサイト1(541-25-3)(ルイサイト2(40334-69-8) およびルイサイト3(40334-70-1)の混合物を含む) |
|||||
mg/m3(注:ppmではない) | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | NR | NR | NR | NR | NR |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 1.3 | 0.47 | 0.25 | 0.070 | 0.037 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 3.9 | 1.4 | 0.74 | 0.21 | 0.11 |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
中毒作用機序
2)毛細血管透過性亢進作用
3)ヒ素中毒
体内動態
[吸収]
[分布]
[排泄]
II.2.3.症状
概要
詳細症状
痛みを伴う水疱の出現は数時間以内(12時間以上遅れることもある)。
曝露5分後には腐食性の化学熱傷と同様に、死んだ上皮が灰色となる。
水疱の有無に関わらず、痒みや刺激症状が24時間は続き、48~72時間後に軽減する。熱傷部位が広範で深い場合は、組織の壊死(壊疸)に陥り、痂皮を形成する。
ルイサイトの霧のような微粒子が眼に入った場合は、一過性の角膜上皮のびらんが生じる。
毛髪、尿、血中、胃内容物のヒ素濃度の測定は、曝露が明らかでない場合は、診断に有用である。
予後
Bowen’s病(表皮内扁平上皮癌)を誘発すると考えられる。
II.2.4.治療
概要
症状が出現した患者は、全ての症状が十分回復するまで特定の適切な施設で治療する。
次に該当する場合は全身管理(呼吸・循環機能、ショック対策、BALの筋注等)が必要となる。
詳細
直ちに曝露部位を大量の水で洗浄する。
RSDL®では分解されるとはメーカーは保証していないので注意する。
BAL軟膏塗布:吸収を阻止する。
日本および海外で製造されていない。
水疱が出現する前にBAL軟膏を塗布し、指で擦り込み、5分間放置後、水で洗い流す。
(軟膏塗布により1時間位で一時的に刺激感、痒み、丘疹が出現することがある)
参考)BAL軟膏の作成例(大阪府立急性期総合医療センター)
薬品名 | 量 |
2,3-ジメルカプト-1-プロパノール※ | 50g |
流動パラフィン | 25g |
吸水軟膏 | 450g |
全量 | 500g |
試薬一級 東京化成(25g/瓶)
分子式:SHCH2CH(SH)CH2OH 分子量:124.23
メルカプタン様の不快な臭いがある。
メタノールまたはエタノール(99.5)と混和する。
ラッカセイ油にやや溶けやすく、水にやや溶けにくい。
BALの投与:BALの筋注
製品名:バル(R)筋注100 mg「第一三共」;第一三共
投与法:最大3 mg/kgを最初の2日間は4時間ごとに、3日目は6時間ごとに、以降10日目まで12時間ごとに筋注。
5 mg/kgを超えると50%の患者に副作用が出現する。副作用が極度に重篤な場合や遷延する場合を除き、投与コースは中止しない。
参考)BAL(British anti-lewisite,ジメルカプロール)の作用機序
直ちに曝露部位を大量の水または生理食塩水で洗浄する。
医療機関では眼の洗浄に生理食塩水を使用する。
BAL点眼:吸収を阻止する。
日本および海外で製造されていない。
植物油中5~10%
必要に応じて「*経皮の場合」に準じて行う。
新鮮な空気下に避難する。
必要に応じて「*経皮の場合」に準じて行う。
痙攣対策をとった上で施行。
必要に応じて「*経皮の場合」に準じて行う。
II.3.ナイトロジェンマスタード(HN-1, HN-2, HN-3)
概要
マスタードは、硫黄由来の臭気を持ち、水に溶けにくく油に溶けやすい、毒性が強い、という3点から、化学剤としては取り扱いにくかった。そのため、各国でマスタードの改良が試みられ、アメリカとドイツでほぼ同時に完成したのが、硫黄を窒素に変えたナイトロジェンマスタードであった。化学剤としてはHN-1~3があるが、HN-2は不安定な物質で重要視されていない。HN-1は温度により揮発度が異なる。米軍では化学剤として使用したことはないが、保有はしていた。HN-2の塩酸塩(塩酸ナイトロジェンマスタード-N-オキシド)は医薬品(抗腫瘍薬、ナイトロミン(R))として用いられていた。HN-3は蒸気圧、揮発度ともに低く、酷暑時でも有効な蒸気濃度にならず、実戦で使われたことはない。1925年ジュネーブ議定書により戦時使用禁止が決議された(日本は1970年に批准)。特異的解毒剤はなく、対症療法が主となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
II.3.1.HN-1:bis(2-Chloroethyl)ethylamine
II.3.1.1.物性
わずかに魚臭、アミン臭を有する液体。暗黒色でかび臭を有する。
[構造式]
[分子量]170.08
[比重]1.0861(23℃/4℃)
[沸点]
66℃(3mmHg)、85.5℃(12mmHg)
[融点]-34℃
[蒸気圧]0.24mmHg(25℃)
[相対蒸気密度]5.9(空気=1)
[揮発度]
[引火性]可燃性はあるが爆発性は高くない。
[溶解性]
[反応性]
65℃で鋼をわずかに腐食する。金属と反応して可燃性の水素ガスを生じる。加熱により、爆発性を持つ。
II.3.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[ヒト中毒量]
[ヒト致死量]
吸入ヒト半数致死量(LCt50):1500mg・分/m3
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 暫定値
ナイトロジェンマスタード HN-1 CAS #: 538-07-8 | |||||
mg/m3(注:ppmではない) | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | NR | NR | NR | NR | NR |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.13 | 0.044 | 0.022 | 0.0056 | 0.0028 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 2.2 | 0.74 | 0.37 | 0.093 | 0.047 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[発癌性]ヒトでおそらく発がん性を示す。
中毒作用機序
体内動態
[吸収]II.3.1.3.症状
概要
詳細症状
激しい下痢(出血を伴うこともある)
服用した場合は、消化管の刺激または熱傷による症状。
II.3.1.4.治療
概要
詳細
コンタクトレンズ、薄膜または全層の角膜移植は遅延性の角膜炎による
視力の改善に効果があるかもしれない。
希釈:牛乳または水を120-240mL(15mL/kg以下)投与する。
胃洗浄:消化管出血、穿孔の危険性を考慮して判断する。痙攣対策をとった上で施行する。
活性炭の投与:有効性は不明。むしろ内視鏡検査の妨げになる。
塩類下剤の投与:HN-1,2に関する有効性は不明である。
体外排泄促進法:血液浄化療法の有効性に関する報告はない。
十分な補液。痙攣対策。
骨髄抑制対策:G-CSF、血液幹細胞移植
II.3.2.HN-2:bis(2-Chloroethyl)methylamine
II.3.2.1物性
無色~微黄色をおびた油状の液体。ニンニク、にしん、マスタード臭を有する。
低濃度ではソフトな石鹸臭、高濃度では果実臭(US Army report)
[構造式]
[分子量]156.07、192.53(塩酸塩)
[比重]1.118(25℃/4℃)
[沸点]
[融点]-60℃
[蒸気圧]65mmHg(25℃)
[蒸気密度]空気より重い
[揮発度]3.581mg/L(25℃)
[引火性]可燃性
[溶解性]
ジメチルホルムアミド、二硫化炭素、四塩化炭素、他の有機溶剤、油類と混和しうる。
[反応性]加熱により、爆発性を持つ。
[環境汚染の持続時間]
土壌中:乾いた土壌からは蒸発し、光化学的に分解される。
湿った土壌中では、水中と同様に加水分解される。
水中:速やかに加水分解される。methyldiethanolamineとなる。
半減期 11時間(25℃)
II.3.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[ヒト中毒量]
経皮ヒト半数不能量ICt50):(マスク使用時)2500-9000mg・分/m3
経口ヒト中毒量:ボランティアに4-6mg/日を1回経口投与後、嘔気、嘔吐、頭痛、下痢が24時間続いた。
[ヒト致死量]
静注ヒト半数致死量(LD50):推定1mg/kg
ナイトロジェンマスタード HN-2 CAS #: 51-75-2 | |||||
mg/m3(注:ppmではない) | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | NR | NR | NR | NR | NR |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.13 | 0.044 | 0.022 | 0.0056 | 0.0028 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 2.2 | 0.74 | 0.37 | 0.093 | 0.047 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[刺激性]
皮膚腐食性/刺激性:強力なびらん作用があり、腐食性を有する。
[発癌性]
中毒作用機序
体内動態
[吸収]II.3.2.3.症状
概要
詳細症状
大量曝露では、肺水腫(発症は曝露後24-72時間遅れることがある)
高濃度では中枢神経抑制、痙攣
眼瞼や眼周囲粘膜の水疱、痛み、縮瞳、眼瞼痙攣、羞明、まれに失明
II.3.2.4.治療
HN-1のII.3.1.4項を参照
II.3.3.HN-3:tris(2-Chloroethyl)amine
II.3.3.1.物性
微黄色をおびた液体。わずかに魚臭+石鹸臭。純品は無臭。
[構造式]
[分子量]204.53
[比重]1.2347(25℃/4℃)
[沸点]144℃(15mmHg)
[融点]-4℃
[相対蒸気密度]7.1(=空気1)
[揮発度]0.120mg/L(25℃)
[引火性]
[溶解性]
炭素、他の有機溶剤、油類と混和しうる。
アルコール、エーテル、ベンゼンに可溶。
[反応性]
サラシ粉やクロラミンにより分解され、低毒性になる。
弱アルカリ下(pH=8)では24時間以内に90-95%分解される。
り分解し、有毒な塩素ガス、窒素酸化物を生成する。
金属とは反応しない。
[環境汚染の持続時間]
土壌中:主に加水分解される(特に弱アルカリ下)と推定される。
水中:主に加水分解される(特に弱アルカリ下)と推定される。
硫黄マスタードの3倍持続性がある。
II.3.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[ヒト中毒量]
経皮ヒト半数不能量(ICt50):2500mg・分/m3
2-6mg服用後、嘔気、嘔吐が出現。
最小中毒量(白血球減少症が出現):塩酸塩で214μg/kg
[ヒト致死量]
吸入ヒト半数致死量(LC50):1000mg/m3
経皮ヒト半数致死量(LD50):10mg/kg
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]暫定値
ナイトロジェンマスタード HN-3 CAS #: 555-77-1 | |||||
mg/m3(注:ppmではない) | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | NR | NR | NR | NR | NR |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.13 | 0.044 | 0.022 | 0.0056 | 0.0028 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 2.2 | 0.74 | 0.37 | 0.093 | 0.047 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[刺激性]
[発癌性]
中毒作用機序
体内動態
[吸収]II.3.3.3.症状
概要
詳細症状
咳、嗄声、呼吸困難、湿性ラ音、気管支肺炎。
大量曝露では、肺水腫(発症は曝露後24-72時間遅れることがある)
嘔気、嘔吐。
吸収されると細胞分裂を抑制し、激しい血性下痢、消化管の壊死性傷害。
II.3.3.4.治療
HN-1のII.3.1.4項を参照
II.4.ホスゲンオキシム(CX)
概要
ホスゲンオキシム(Phosgene oxime)は強い腐食性を持つびらん剤である。一般的には、びらん剤(blister agent)とされるが、水疱(blister)は作らず、urticant、nettle agent(湿疹剤) とも言われる。ハロゲン化オキシム剤の中で最も毒性が強く、マスタードガスよりも皮膚への刺激性が高いと言われている。 実際に戦争で使われたことがないため人体に対する作用は不明な点が多く、動物実験による効果から推測されているだけである。
曝露直後にルイサイトは疼痛と水疱、ホスゲンオキシムは疼痛が接触局所に出現し、マスタードガスとナイトロジェンマスタードでは遅れて疼痛と水疱が出現する。ホスゲンオキシム白色の結晶性粉末で、不快な強い刺激臭がある。軍用品の純度では黄~褐色の液体である。暴露直後に痛みが出現し、速やかに組織の壊死を起こす。他の毒ガスより衣服やゴムに速やかに浸透する。ブチルゴムですら浸透する。とはいえ、発災現場での現実的な対応には、通常の化学防護装備で対応する。その際、皮膚の刺激症状が出るようであれば、即座に手袋やブーツを交換する。特異的解毒剤はなく、対症療法が主となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
II.4.1.物性
白色の結晶性粉末。不快な強い刺激臭。軍用品の純度では黄~褐色の液体。
[構造式]
[分子量]113.93
[沸点]128℃
[融点]35~40℃(室温で液体化しうる)
[蒸気圧]
[揮発度]1800mg/m3(20℃)
[溶解性]
[反応性]
[環境汚染の持続時間]
II.4.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
基本的に極めて毒性が高い。作用機序は不明である。
毒性
[ヒト中毒量]
半数不能量(蒸気曝露でおこる眼障害による):300mg・min/m3以下
[ヒト致死量]
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 暫定値
ホスゲンオキシム CAS : 1794-86-1 | |||||
mg/m3 (注:ppmではない) | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | 0.17 | 0.056 | 0.028 | 0.0069 | 0.0035 |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.50 | 0.17 | 0.083 | 0.021 | 0.010 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 36 | 25 | 13 | 3.1 | 1.6 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[刺激性]
眼刺激性:強い刺激性あり
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
II.4.3.症状
概要
詳細症状
高濃度で強い刺激性があり、速やかに壊死を起こす。
接触部位は、数秒以内に痛みを生じ、30秒以内に白色に変性し、その周囲は強い痛みを伴う紅斑となり、15分以内にじんましんを生じる。24時間後には白変した部分は褐色化し、落屑、壊死、化膿性滲出液等を生じる。水疱は作らない。その後、痂皮を形成し、約3週間で痂皮は脱落する。かゆみと痛みは、皮膚傷害が治癒するまで続くことがある。
低濃度でも強い刺激性がある。痛み、結膜炎、角膜炎を起こす。接触により永久的な角膜障害を残し、失明に至る。
低濃度でも強い刺激性があり、上気道の刺激症状が出現する。吸入および経皮曝露後数時間で肺水腫を生じる。肺水腫に伴い、壊死性細気管支炎から肺血栓症に至ることがある。
出血性炎症を生じることがある。
II.4.4.治療
概要
特異的解毒剤はなく、迅速な除染が傷害を軽減する唯一の方法である。理想的には、曝露後直ちに、(数秒以内)に除染するのが好ましい。化学的に類似の強酸などの腐食性物質の治療に準ずる、呼吸・循環機能の維持管理に努める。皮膚や衣服がホスゲンオキシムによって汚染されている場合、直接、若しくは気化して二次被害を起こすので、ABCの呼吸循環管理を行いつつも、汚染管理は徹底する。医療機関内に汚染を持ち込まないために、除染を行ってから院内に搬入する。皮膚、眼の刺激症状が無ければ、剤への曝露はないものと考えることができる。
詳細
熱傷に準じた治療を行う。
強いかゆみを伴う紅斑の場合カラミンローションやステロイドクリームを塗布する。
皮膚欠損が広範であれば植皮を要する。皮膚曝露範囲が広いようであれば、熱傷治療施設への転送が必要となる。
III.血液剤
III.1.シアン化水素(AC)
概要
シアン化水素は、塩化シアンと同じく、血液剤に分類される。気体のシアン化水素は青酸ガスといい、液体は液化青酸という。水溶液は弱酸性を示し、シアン化水素酸と呼ばれる。気体、液体、水溶液のいずれについても、慣習的に青酸(せいさん)と呼ばれる。この語は紺青に由来する。チトクロームオキシダーゼと結合し、細胞の酸素利用を阻害する。無色でかすかにビターアーモンド(苦扁桃)臭のある、非常に揮発しやすい可燃性の液体または気体。空気より軽く揮発性が高いため野外では速やかに拡散し、致死濃度に達しにくいため、化学兵器としてはあまり有用ではないとされる。化学兵器としてのこの欠点を克服するために空気より重い塩化シアンが製造された。第一次世界大戦中の1916年に連合軍(仏、英)がドイツ軍に対して小規模に使用した。イラン・イラク戦争で、イラク軍はイラン軍に対してシアン化水素を使用したとされる。旧日本陸軍は、1937年(昭和12年)に「ちや一号」として制式化、その後、対戦車兵器として液化青酸270g入りのビン「一式手投丸缶」(ちび弾とも呼ばれた)を製造した。戦車にぶつけて割ると、装甲の隙間から中に入り込み、乗員を中毒させるのが目的であった。一方、旧海軍では「四号特薬」と呼称した。最近の事例では、1988年3月18日、イラク北東部のハラジャブ市(当時イラン軍の占領下) で、イラク軍によりクルド人に対し使用されたと指摘されている。兵器としてではなく、閉鎖空間での使用例としては、第二次世界大戦下にナチスの強制収容所でユダヤ人殺害のため、毒ガスとして使用された。アメリカ合衆国の一部の州ではガス室刑にシアン化水素を用いていたが、処刑後の清掃などに大きなコストがかかることなどもあり、1999年以降行われていない。執行後のガス室は壁面に付着した青酸ガス成分を除去するため、毎回の洗浄作業が必要となる。この作業に対する防護措置、危険手当、各種消耗品等の負担は大きく、現在の米国において最もコストがかかる死刑方法とされる。1995年5月に新宿駅地下街でオウム真理教信者が、シアン化ナトリウムと硫酸を混合することにより発生させようとしたが、未遂に終わった。イラクは2009年1月に化学兵器禁止条約に加入し、大量の化学兵器を廃棄した。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。シアン化水素は、特に吸入曝露により全身症状を呈するが、皮膚曝露、経口摂取によっても中毒症状を引き起こす。すなわち、使用散布方法としては、閉鎖された室内で使用するか、食物、水分を汚染させるか、もしくは屋外で散布される。アグロテロとして農作物を汚染させる可能性は低いとされる。作用が迅速であるのが特徴で、大量を吸入すると、突然意識を失い、呼吸停止により急死する。重症の場合、迅速に解毒剤を投与することが救命の重要要素となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者と物品に直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
III.1.1.物性
シアン化水素は無色、可燃性の液体または気体である。シアン化水素酸はシアン化水素の水溶液で、青みがかった揮発性の液体である。ともにかすかにビターアーモンド(苦扁桃)臭または桃の種の臭いがある。ここでいうビターアーモンド臭とは、製菓に用いるアーモンドエッセンスの甘い香りとは異なる。 また、嗅盲といって遺伝的にこの臭いを感じない人が20%~40%いる。
[構造式]
[比重]
[融点] -13.4℃
[蒸気圧]
[引火点]
可燃性の気体であり、爆発範囲 (5.6~40.0%) を持つ。特にアルカリと反応して爆発する。その他、熱や炎にさらされることによって爆発のリスクが高まる。
[環境汚染の持続時間]
III.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
シアン化水素は作用が迅速であるのが特徴で、高濃度曝露では呼吸不全により急死する。吸入時の症状は空気中の濃度により大きく変動する。
60mg/m3 60分曝露では重篤な症状は引き起こさないが、
200mg/m3 10分曝露、
5000mg/m3 1分曝露では死亡することがある。シアン化水素の毒性報告は幅が広く、270 ppmで即死というものから、5,000 ppmの1分間の吸入で半数死亡というものまである。これは肝臓によるチオシアン酸化解毒能力と、細胞の壊死に対する抵抗力における個体差が激しいものと考察される。蓄積性は低いので、一度意識が戻れば急速に回復する。
毒性
[ヒト中毒量]60分曝露では重篤な症状は引き起こさない。
最小中毒量 TCLo 500mg 3分
吸入最小中毒量 TCLo 5mg/m3:頭痛
吸入最小中毒量 TCLo 吸入 20mg/m3:悪心、嘔吐、脈拍変化
[空気中濃度と中毒作用]
110~135ppm 0.5~1時間の曝露で致死または生命に危険
135ppm 30分間の曝露で致死
181ppm 10分間の曝露で致死
270ppm ただちに死亡、または6~8分以内に死亡
(1ppm:1.1mg/m3に相当)
300ppm 数分内に死亡
[血中シアン濃度]
3.85~40mg/L:拮抗剤投与により重度の中毒から生存
1.0mg/L以上で顕著な症状発現
[ヒト致死量]
経皮ヒト推定半数致死量(LD50):(液体)約100mg/kg
吸入ヒト致死量:100mg/m3 1時間
120mg/m3 30分
200mg/m3 10分
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
シアン化水素 74-90-8 | |||||
ppm | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | 2.5 | 2.5 | 2 | 1.3 | 1 |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 17 | 10 | 7.1 | 3.5 | 2.5 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 27 | 21 | 15 | 8.6 | 6.6 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[刺激性]
(参考)
許容濃度等:日本産業衛生学会 許容濃度 : 5ppm (5.5mg/m3) (経皮吸収)
ACGIH TLV-C : 4.7ppm (5 mg/m3 ) (経皮吸収)
NIOSH REL-STEL:4.7 ppm (5mg/m3)
NIOSH IDLH:50ppm(シアン化合物として)
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
[分布]
率:血漿中の約60%が蛋白結合している。分布容量:約0.41L/kg
[代謝]
[排泄]
III.1.3.症状
概要
大量に吸入すると、突然意識を失い、呼吸停止により直ちに死亡する。シアンは呼吸中枢を直接刺激するため、高濃度曝露では吸入直後には呼吸数、換気量とも増加する。30秒以内には意識消失、痙攣、数分で呼吸停止、さらに数分で心停止にいたる。中等量の場合、病的な状態が1時間以上続くことがある。血管拡張のため曝露後から全身の温感が出現、持続し、紅潮を認める。ついで嘔気、嘔吐、ときに頭痛をきたす。さらに胸部絞扼感を伴う呼吸困難が出現、最後に意識消失し、痙攣が出現する。低濃度曝露では、呼吸数・換気量の増加、めまい、嘔気、嘔吐、頭痛がみられる。曝露が続くと呼吸困難、脱力を伴う。細胞が酸素を利用できないため、静脈血酸素濃度が上昇し、皮膚は鮮紅色を呈する。このためチアノーゼを肉眼的に確認することは困難である。嫌気性代謝による代謝性アシドーシス(乳酸アシドーシス)がみられる。
詳細症状
心電図異常;重症の場合、AVブロック、続いて心停止に至る場合もある。ST-T波の変化も見られる。
精神症状として非理性的行動、暴力行為、躁状態が見られる。
2.5μg/mL以上・・昏睡、痙攣、死亡
静脈血中酸素濃度の増加、代謝性アシドーシスはシアン中毒
では必発の兆候である。
検査
ヒドロキソコバラミン使用時には、ヒドロキソコバラミンが赤色のため、AST、クレアチニン、ビリルビン、マグネシウムなどの血中イオンが分光光度計で正確に測定できない恐れがある。
中心静脈血:可能ならば、同静脈酸素分圧差を確認しておくべき。
尿 :尿中シアン化物濃度
胸部X線検査:呼吸困難のある患者では実施する。
MRI:シアン化合物によるパーキンソン症候群のある患者では障害の部位、程度を同定するのに有用。
III.1.4.治療
概要
呼吸循環管理を最優先させる。特に吸入による中毒の場合は、発症が速いので、医療
従事者との接触時に歩行可能であれば、治療の必要性は殆ど無い。
日本で医薬品として市販されシアン中毒の適応がある解毒剤は、ヒドロキソコバラミン、チオ硫酸ナトリウム、亜硝酸アミルである。
詳細
呼吸不全を来していないかチェック。心肺停止であっても、口対口人工呼吸は、曝露経路に関わらず、決して行ってはならない。
血液透析: 血液透析はコントロールしにくいアシドーシスを補正し、またチオ硫酸ナトリウムにより生成したチオシアン酸を除去できることから、理論的には有効な方法といえるが、エビデンスに欠けており、シアン中毒の標準的治療法とは考えられない。
血液吸着:現時点ではシアン化水素中毒の標準的治療とは考えられない報告例でも有用性は認められていない。
構成 :ヒドロキソコバラミン注射用5g 1バイアル、
日本薬局方生理食塩水(200mL)1本、
溶解液注入針1個、輸液セット(22ゲージ翼付注射針付き)
1セット、23ゲージ翼付注射針1セット
ヒドロキソコバラミン分子の三価のコバルトイオンに結合している水酸イオンがシアンイオン(CN-)と置換することにより、無毒のシアノコバラミンが形成され、尿中に排泄される。ヒドロキソコバラミンは血液脳血管関門を通過するため、直接中枢神経系で効果を示す。
ヒドロキソコバラミンとして5 g(1バイアル)を生理食塩液200 mLに溶解して必要量を投与する。
成人:通常、ヒドロキソコバラミンとして5 gを、日本薬局方生理食塩液200 mLに溶解して、15分間以上かけて点滴静注する。
小児:通常、ヒドロキソコバラミンとして70 mg/kgを、15分間以上かけて点滴静注する。ただし、1バイアル(ヒドロキソコバラミンとして5 g)を超えない。
症状により1回追加投与できる。
追加投与にあたっては、まずヒドロキソコバラミン初回投与量(成人:5g、小児:70mg/kg)を点滴静注しながら、十分なモニタリングを行い、被災者の臨床症状、たとえば神経・心血管状態が安定するか否かによって、追加投与が必要かを判断する。
適応に従って15分間~2時間かけて点滴静注する。
IPCSの資料では、重症患者にはヒドロキソコバラミンとチオ硫酸ナトリウムと投与すべしと記載されている。同時投与は避け、同時に投与しなければならない場合には、同じ静脈路から投与しないこと。本剤とチオ硫酸ナトリウムとを混合するとチオ硫酸-コバラミン化合物を形成し、ヒドロキソコバラミンが遊離シアンと結合できなくなり、解毒作用が低下する。
作用機序 :ミトコンドリア内酵素rhodaneseにより、本剤がシアンイオン(CN-)と反応し、毒性が弱く尿中に排泄しやすいチオシアン酸塩(SCN)を生成させる。解毒を促進するために、本剤を静注し補給する。
細胞内のシアンに対しても有効である。これを応用して、遺伝子組
み換えで作成したrhodanese を治療に使おうという試みもある。
一般に、10%チオ硫酸ナトリウム125 mLを10分間で静注する。
年齢、症状により適宜増減する。
同時投与は避け、同時に投与しなければならない場合には、同じ静脈路から投与しないこと。
亜硝酸塩を投与し、メトヘモグロビンをつくると、チトクロームオキシダーゼのFe3+と結合していたシアンイオン(CN-)が遊離してメトヘモグロビンのFe3+と結合しシアンメトヘモグロビンとなり、チトクロームオキシダーゼを保護する。
状況証拠とともに、意識障害、痙攣、アシドーシス、バイタルサインの異常等のシアンによる中毒症状がある中等症~重症症例に使用する。
但し、シアン化水素吸入により昏睡状態に陥っても、曝露がごく短時間で、来院時に意識が回復し、アシドーシスやバイタルサインの異常がみられない場合、投与は必要ない。
薬剤名 :亜硝酸アミル「第一三共」
適応基準 :シアンによる中毒
亜硝酸ナトリウムの準備ができるまで、100%酸素と交互に30秒間/分吸入、2~3分毎に新しいアンプルを使用する。アシドーシスが認められた場合、炭酸ナトリウム静注により補正を行う。
中止の基準 :亜硝酸ナトリウム静注の準備ができれば中止する。
薬剤名 :日本に医薬品の市販製剤はない。
試薬(特級)の亜硝酸ナトリウムを用い3%注射液を院内製剤化し、医師の責任の下に使用する。
初回投与:3%溶液10 mLを3分間で静注する。
再投与:亜硝酸ナトリウム、チオ硫酸ナトリウムの投与でも効果がなければ、重大な合併症(血圧低下、過剰のメトヘモグロビン血症)がない場合に限って、亜硝酸ナトリウムとチオ硫酸ナトリウムを初回の半量投与する。
試薬(特級)の亜硝酸ナトリウムを用い3%溶液に調整する。
注射用蒸留水20 mLに亜硝酸ナトリウム0.6gを入れて製する。
ろ過滅菌し、アンプルに充填する。
亜硝酸ナトリウムの静注に続いて、本剤の静注を行う。
予後
洗浄後も刺激感や疼痛が続くなら、医師の診察が必要。
注意深く観察する。
(全身症状が出現するのは通常、重篤な熱傷を起こしている場合か、シアン
化合物溶液に全身が浸漬されている場合のみである)
必要ならば、吸入・経口の場合に準じて治療する。
経過観察
III.2.塩化シアン(CK)
概要
塩化シアンは、シアン化水素と同じく、血液剤に分類される。空気より重く発火しにくくして、化学兵器として使いやすいように、シアン化水素を改良したものである。第一次世界大戦中、1916年連合軍(仏、英)がドイツ軍に対して小規模に使用した。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。イラン・イラク戦争で、イラクが使用したとされる。イラクは2009年1月に化学兵器禁止条約に加入し、大量の化学兵器を廃棄した。
シアン化水素と同様に、チトクロームオキシダーゼと結合し、細胞の酸素利用を阻害する。無色で揮発性の高い液体または気体。水分や酸と反応し、シアン化水素、塩化水素、塩素などを生じる。シアン化水素と異なり、蒸気は低濃度でも眼、鼻、気道粘膜に強い刺激性がある。催涙剤と同様、曝露直後より、眼刺激、流涙が生じる。吸入するとさらに鼻・喉刺激、咳、胸部絞扼感が出現する。作用が迅速であるのが特徴で、大量を吸入すると、突然意識を失い、呼吸停止により急死する。重症の場合、迅速に解毒剤を投与することが救命の鍵となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者と物品に直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
III.2.1.物性
塩化シアンは常温で無色、揮発性の高い液体または気体。 (ペルシャ湾地域のような温帯で使用するとガスとなり、低温地域で使用すると、エアゾール状の霧となる。) シアン化水素より比重は大で、不燃性である。
[構造式]
[分子量] 61.48
[比 重] 1.218(4℃/4℃)
[沸 点] 13.1℃
[融 点] -6.5℃
[蒸気圧] 1010 mmHg/20℃
[蒸気密度] 1.98 g/cm3
[揮発度]
[引火点]可燃性なし
[溶解性]
アルコール、エーテルに可溶。有機溶剤に可溶。
[反応性]
III.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
約10 mg/m3以上で、直ちに眼刺激、催涙を生じる。
[中毒量]
吸入ヒト不能量:7000 mg・分/m3
[致死量]
吸入ヒト致死量:48 ppm-30分
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 設定なし
[その他の毒性]
眼刺激性(ヒト):>10 mg/m3 直ちに眼刺激、催涙
100 mg 2分/m3 強い刺激性
(参考)
許容濃度等: ACGIH TLV-C: 5mg/m3
NIOSH IDLH:50 mg/m3 (シアン化合物として)
臭い閾値:2.5 mg/m3(1 ppm)で刺激臭
刺激性、催涙性が強いため、臭気は認知しがたい。
中毒作用機序
遊離した塩素や塩化水素による直接的な刺激作用で、気管支に強い炎症、肺の充血・浮腫を引き起こす。
体内動態
[吸収]
化学兵器としては呼吸への作用を目的として使用されるが、大量では皮膚
からも吸収されて中毒を引き起こす。
塩化シアンは吸入、皮膚から吸収される。
[分布]
赤血球中の濃度は血漿中の2~3倍。
蛋白結合率:血漿中の約60%が蛋白結合している。
分布容量:約0.41 L/kg
[代謝]
肝臓で硫黄の存在下、酵素ロダナーゼにより代謝され、毒性の低いチオシアネート
となる。
[排泄]
吸収された塩化シアンの一部は未変化体で肺より排泄される。
III.2.3.症状
概要
詳細症状
III.3.ヒ化水素(SA)
概要
アルシン(ヒ化水素、水素化ヒ素)は、シアン化水素や塩化シアンと同様に血液剤としてまとめられるが、いわゆるシアン中毒とは作用機序が異なり、溶血毒である。溶血することによって末梢組織への酸素供給が低下する意味では、同じ仲間である。化学剤として研究されてきたが、アルシンはホスゲンの10分の1の毒性といまひとつ毒性が低く、製造が難しく、可燃性も高いことから実際には今まで戦場で使用されたことがない。それでも、いわゆるジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。その後、化学兵器禁止条約(1997年)で開発・製造・貯蔵・使用が禁止された(日本は調印済み)。しかし、小規模なテロの手段として使用される懸念はある。また、ヒ素中毒の患者を胃洗浄する際に、ヒ素と胃酸(塩酸)とが反応して、ヒ化水素を発生することが知られており、中毒診療上、その中毒への対策が問題となっている。工業界でも、半導体のマイクロチップを製造する作業過程でも発生する。さらには、砒素を含む殺虫剤と酸を混合しても発生する可能性がある。無色で粘膜刺激作用の無い気体である。濃度が0.5ppm以上であればわずかなニンニク臭であるが、それより低い濃度(0.05ppm)から毒性を示す。ニンニク臭は、不純物のテルルによるものとも言われる。重篤な中毒であれば、曝露後30~60分以内に症状が発現するが、通常は非刺激性のため、当初は顔色や気分も比較的良く、症状が遅れて(曝露の程度によるが2~24時間後)発現する。アルシン中毒の三主徴は、腹痛、ヘモグロビン尿、黄疸であり、多数の被害者が遅れてこのような症状をきたしていれば、アルシン中毒を疑う。特徴的な毒作用は血管内溶血である。溶血により急性腎不全が生じる。腎に対する直接作用もある。死因は腎不全、心筋障害、肺水腫である。貧血には輸血、重症の溶血には交換輸血を行い、腎不全には血液透析を行う。アルシン(砒化水素)は砒素化合物より発生するが、アルシンによる中毒は砒素中毒ではない。従って、砒素のキレート剤の投与は無効であり、むしろ投与してはならない。
III.3.1.物性
無色で、粘膜刺激作用の無い気体。
[構造式]
[分子量] 77.93
[比重] 3.484 g/L
[沸点] -62.5℃
[融点] -117℃
[蒸気圧]
[相対蒸気密度]2.66(空気=1)
[引火点]
[溶解性]
[反応性] 光により急速に分解する。
[環境汚染の持続時間]
III.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
0.05ppm以上で毒性を示す。ガス自体に刺激性が無く、臭いも中毒量よりも高い濃度でしか感じないので、臭いで被害を防ぐことはできない。
毒性
[曝露濃度と中毒作用]
25-50ppm 30分の吸入で死亡(溶血による)
100ppm 30分以内の吸入で死亡(溶血による)
150ppm ただちに死亡
尿中ヒ素濃度との関係
70-100mcg/L 中毒症状出現(正常値:<20μg/L)
[ヒト中毒量]
325μg/m3
[ヒト致死量]
300ppm・5分
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
アルシン 7784-42-1 | |||||
ppm | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | NR | NR | NR | NR | NR |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.3 | 0.21 | 0.17 | 0.04 | 0.02 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 0.91 | 0.63 | 0.5 | 0.13 | 0.06 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
(参考)
許容濃度等 ACGIH TLV-TWA:0.05ppm
NIOSH IDLH:3ppm
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
皮膚からも吸収される。
[分布]
[代謝]
[排泄]
わずかな量はトリメチルアルシンとして呼気に排泄される。
III.3.3.症状
概要
詳細症状
低血圧症、不整脈、心電図上T波の上昇、頻拍
遅れて心筋壊死・心機能不全(18ヵ月後)
呼気にニンニク臭。呼吸困難、頻呼吸
高濃度曝露:急性肺炎または肺水腫、crackle、ARDS
頭痛、倦怠感、錯乱、めまい、感覚異常
高濃度曝露:数日後に脳症(不穏、記憶力の消失、激情、失見当識)
2-3週間後に末梢神経症状(手・足のしびれ、筋肉の衰弱、羞明)
アルシン曝露1-6ヶ月後に運動神経、感覚神経共にポリニューロパ
チー、精神症状が出現したとの報告もある。
嘔気、嘔吐、食欲不振、腹痛
黄疸(24-48時間後)(重篤な溶血の場合)、肝腫大
紅茶色のヘモグロビン尿(4~6時間後)、血尿、脇腹痛、乏尿、無尿
ヘモグロビン尿がしばしば目に見える最初の症状であることがある
急性腎不全(溶血による)
溶血(4-6時間後)、曝露24時間以上経過してからは、溶血は起こらない。
高カリウム血症
ブロンズ様(青銅色)の色素沈着(重篤な溶血の場合)
全身性筋力低下、筋痙攣、戦慄
口渇、悪寒、結膜の変色(赤、オレンジ、茶、真ちゅう色、過ビリルビン血症によるものではない) 発熱(マラリアやレプトスピラ症と間違われることがある)
血中ヒ素濃度:重篤な中毒であれば200μg/dL(正常値<20μg/dL)の値を示すが相関性はない。曝露の指標にはなる。血漿遊離ヘモグロビン濃度は2g/dLを超えることがある(正常値<1mg/dL)。ハプトグロビン濃度の低下、ヘマトクリット値の低下 。尿中ヒ素濃度は上昇しているかもしれないが、これは救急医療の現場では役に立たない。
検査
以上の値を示すが相関性はない。曝露の指標にはなる。呼吸器症状がある患者で
は、胸部X線検査を行う。
III.3.4.治療
概要
溶血の所見があれば、72時間は腎不全の徴候が現れないか観察する必要がある。
必要に応じて、交換輸血、血液透析、ハプトグロビン製剤の投与を考慮する。
詳細
アルカリ尿を保つことで、ヘモグロビンとアルシン化合物の腎尿細管への沈着を防ぐ。
(ただし、本中毒の本態は砒素中毒ではない)。
高度の溶血によってヘモグロビンが大量に放出されると、血液中のハプトグロビンがヘモグロビン代謝のために消費されて消失する。そうなると処理しきれない過剰の遊離ヘモグロビンが血液中に残ることになる。遊離ヘモグロビンは尿細管の機能障害(腎障害)を引き起こす。そこで、血液から精製したハプトグロビン製剤を投与し、血液中のハプトグロビンを補充することにより、過剰の遊離ヘモグロビンを肝臓に運び処理すれば、溶血に伴う腎障害を抑制することができる。日本では、この目的で、ハプトグロビン製剤が使用されているが、ハプトグロビン製剤は血液製剤であるので、リスクとベネフィットを勘案した上で使用の可否を判断する。
経過観察
無症状の場合、4~6時間経過観察し、その間無症状の場合、退院させたとしても、その後、症状が出現、あるいは尿の変色が出現すれば直ちに受診させる。
溶血の所見があれば、72時間は腎不全の徴候が現れないか観察する必要がある。
IV.窒息剤
IV.1.塩素(Cl2)
概要
緑黄色、強い刺激臭のある気体で、ホスゲン、ジホスゲン、クロルピクリンと同じく窒息剤に分類される。第一次世界大戦において本格的に使用された。1915年4月22日ドイツ軍がイープル戦で連合国軍に対して塩素ガスによる攻撃を開始し、その後大規模に使用した。これは、人類史上最初の大規模毒ガス攻撃とされる。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。粘膜刺激作用が強く、特に吸入曝露により呼吸器(主に上気道)を刺激し、呼吸器症状が出現する。窒息剤の吸入毒性はホスゲン>クロルピクリン>塩素の順に強い。窒息剤の物性は、水溶性により、アンモニアの様に高い水溶性を示すものとホスゲンのように低い水溶性のもの、塩素のようにそれらの中間の水溶性を呈するものとに分けられる。臨床的には水溶性が高ければ上気道の病変が主体となり、低ければ下気道の病変が主体と成り、中間の水溶性であれば、上気道、下気道共に侵されることになる。空気より重く、低所や密閉空間では危険性が高まる。軽度~中等度の曝露では、喘鳴、嗄声、咳、呼吸困難、息切れ、胸部灼熱痛、窒息感がみられ、大量曝露では一般的に肺水腫が出現する。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。二次汚染を防ぐため、除染患者の除染に従事する者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。最近では、塩素は化学兵器というよりも危険な化学工業品として認識されており、広く工業界に存在する塩素がテロリストに使用されてしまうことが懸念されている。米国国土安全省のシナリオでは、大都市では塩素ガスのテロにより17,000名の死者と100,000人の負傷者が出ることが想定されている。
IV.1.1.物性
常温で気体、緑黄色、強い刺激臭がある。 7気圧以上で液体となるので保管、輸送には耐圧ボンベに入れられ、液体は橙黄色。水に溶けて塩酸となる。水素と爆発性混合気体をつくる。これは日光、加熱、火花により爆発する。金属類と接触すると発火して反応。微量の水分がこれを促進する。
[構造式]
Cl2
[分子量]70.9
[比重]
(相対蒸気密度 (空気=1):2.5
(液体)1.4085 (20℃、6.864気圧で)
(液体)1.5649 (-35℃、0.9949気圧で)
[沸点] -34℃
[融点] -101℃
[蒸気圧]
[相対蒸気密度]2.5(空気1)
[引火点]
[溶解性]
水への溶解度:0.9972g/100mL(10℃)
:0.7g/100mL(20℃)
[反応性]
混触危険物質:アンモニア、有機化合物、アセチレン(光照射)、チタン、Al、SbCl3、テトラエチルシラン、アリルスルフィンアミド、tert-ブタノール、ブチルゴム-ナフタレン、3-クロロプロピン、塩化コバルト(II)メタノール、フタル酸ジブチル、ジクロロ(メチル)アルシン、エーテル、ジエチル亜鉛
爆発性混合物をつくるもの:硫酸アミド、ベンゼン、ジメチルホスホルアミド、グリセリン、ジメチルホルムアミド、ヘキサクロロジシラン
腐食性:きわめて強い。特に水分があると、大部分の金属を腐食する。水分のない時は、高温、加圧下で反応。
空気中での性質:液化ガスは速やかに気化し、有毒・腐食性ガス(塩酸)を発生する。このガスは空気より重く、低所に流れる。
[環境汚染の持続時間]
IV.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[中毒量]
曝露濃度と中毒作用
0.2-3.5ppm 臭いを感ずるが、曝露に耐え得る
1-3ppm 軽度の粘膜刺激性があるが、1時間以内の曝露には耐え得る
5-15ppm 上気道に中程度の刺激性あり
30ppm 曝露直後より胸痛、嘔吐、呼吸困難、咳
40-60ppm 肺炎、肺水腫
430ppm 30分間以上の曝露で致死的
1,000ppm 数分間以内の曝露で致死的
小児は、気道の直径が小さいので、成人よりもより感受性が高い。そのうえ、体重
あたりの分時換気量が大きく、避難にかかる時間も長くなりがちであるため重症化
しやすい。
[致死量]
吸入ヒト;LCLo:430ppm/30分
34~51ppmに1~1.5時間以上曝露された場合も同様に致死的
吸入ヒト;LCLo:500ppm/5分
吸入ヒト;LCLo:2,530mg/m3/30分
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
塩素 7782-50-5 | |||||
ppm | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | 0.5 | 0.5 | 0.5 | 0.5 | 0.5 |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 2.8 | 2.8 | 2 | 1 | 0.71 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 50 | 28 | 20 | 10 | 7.1 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
許容濃度:
LV-TWA:0.5ppm(約1.5mg/m3)
TLV-STEL:1ppm(約3.0mg/m3)
IDLH::25ppm
臭い閾値:3.5ppm
[刺激性]
中毒作用機序
塩素は水に溶けやすいため、吸入により喉頭など上気道に作用する。
塩素は生体の水と触れると活性酸素(発生基酸素)と塩酸を生じ、活性酸
素の強い酸化作用により組織傷害、酸により刺激を引き起こす。
体内動態
[吸収]
[代謝]
IV.1.3.症状
概要
詳細症状
(大量曝露)肺水腫、喉頭痙攣、喉頭浮腫による低酸素血症、チアノーゼ、呼吸停止
高濃度では失神、即死もあり得る。
(後遺症)高齢者や曝露直後に顕著な呼吸障害がみられた患者で
は遷延性の後遺症RADSが出現する頻度が増大する。
循環不全により24時間以内に死亡することがある。
中枢神経抑制;重篤な肺障害が生じた患者では中枢神経抑制(嗜眠~昏睡)を引き起こすことがある。
IV.1.4.治療
概要
鼻、喉、眼、気道粘膜にわずかに灼熱感(軽度の咳を伴うこともある)があるだけの患者は曝露場所を離れるだけで、通常、治療を必要としない。より強い症状(胸部絞扼感、呼吸困難、強い咳、不穏等)がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。長期間にわたる呼吸障害が後に出現することがあるので、入院させて6~12時間経過観察することが勧められる。咳がひどい場合には、リドカイン4%溶液4mlで症状は改善する。特異的解毒剤・拮抗剤はない。基本的処置を行った後、対症療法を行う。輸液管理は、進行する肺水腫を防ぐために輸液制限や利尿剤を使う。また、人工呼吸器管理ではPEEPを使用する。気管支痙攣をおこしている場合には、β2作動薬を使う。軽い呼吸器症状や気管支攣縮であれば、β刺激薬の吸入で治療を行う。激しいせきがあるものの呼吸障害を来たしていない場合には,リドカインの吸入(4%溶液4ml)を行えば症状を落ち着かせる。呼吸状態が悪化すれば、気管挿管のうえ、人工呼吸器につながれるが、その際には、tidal volume を5-8ml/kgと低換気にすることが推奨される。理論的には、重炭酸ナトリウムの吸入(5%溶液の吸入)が有効である可能性がある。次亜塩素酸や塩酸を中和できるはずである。いくつかの研究で、ステロイドの吸入、静脈投与の有効性が示唆されている。しかも、投与のタイミングは曝露後可及的速やかに行うことによってより良い結果を得ると言う。このほかの有望な治療としては、N-アセチル-L-システイン(NAC)などのような抗酸化剤などがあるが、まだ動物実験の段階である。
詳細
新鮮な空気下に移動、呼吸不全をきたしていないかチェック。保温し安静を保つ。
酸素投与
最初に加湿した100%酸素を短時間投与し、その後酸素濃度を調節する。5%重炭酸ナトリウムで加湿した酸素により呼吸器症状が劇的に改善されたとの報告があるが、有効性・安全性は確認されていない。
胸部X線検査:気道刺激がある場合、胸部X線検査を行う。
呼吸機能検査:呼吸器系症状は曝露直後~数時間以内に発現することがあるので、呼吸機能を数時間モニターする。症状が消失するまで呼吸機能を長期モニターするのが望ましい。人工呼吸を必要とする呼吸不全をきたすと、予後が悪い。
呼吸不全が進行する場合は人工呼吸(持続的陽圧呼吸)が必要。
(痙攣対策を行った上で実施する)。
経過観察
IV.2.クロルピクリン(PS)
概要
第一次世界大戦において、1916年以降ドイツ軍、連合国軍ともにクロルピクリンを化学兵器(催涙ガス)として使用した。1918年に燻蒸剤として有用であることが判明した。日本でも農薬登録されている。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。農薬として使用時にまれに事故が起こるほか、テロではないが、1988年には、暴力団員が北九州市の入浴施設にクロルピクリンを投げ込み入場客約150人が中毒症状を起こした事件があった。近年では、1989年4月9日、ソ連のグルジャ共和国の民族デモに治安部隊が出動し、クロルピクリンを使用した。また、2008年には、熊本県の救命救急センターにてクロルピクリンを自殺企図で服毒した患者が嘔吐し、患者や職員50名以上が中毒症状を来たした。事故事例では、液体が気化して被害を起こすが、理論上、液体として食べ物や飲料水に混入される可能性もある。ホスゲン、ジホスゲン、塩素と同じく、窒息剤に分類される。無色、油状の刺激性液体で、強烈な臭いがあり、容易に気化する。粘膜刺激作用が強く、特に吸入曝露により、呼吸器症状が出現する。窒息剤の吸入毒性はホスゲン>クロルピクリン>塩素の順に強い。空気の5.7倍の重さで、地面を這うようにして緩やかに拡がる。眼痛、流涙、咽頭痛、咳、鼻汁、嘔気・嘔吐、頭痛が一般的にみられる。重症例では胸痛、呼吸困難、喘鳴、喘息様発作、喉頭痙攣、気管支肺炎、肺水腫が出現することがある。二次汚染を防ぐため、液滴の付着した未除染の患者を除染する者や汚染された物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。
なお、クロルピクリン工業会は事故の未然防止、緊急対応の普及に熱心であり、そのホームページ(http://www.chloropicrin.jp/)には、各種資料を収載している。
IV.2.1.物性
無色、油状の刺激性液体、刺すような刺激臭がある。
[構造式]
[分子量]164.39
[比重] 1.651
[沸点] 112℃
[融点] -64℃
[蒸気圧]
[相対蒸気密度]5.7(空気1)
[揮発度]
[引火性]可燃性あり。
[溶解性]
1mg/Lは148.8ppm、1ppmは6.72mg/m3
[反応性]
加熱すると分解し有毒フュームのCl-、NOxを発生する。水中では分解しない。特に大きな液体容器の場合、火気、衝撃があれば、爆発の危険性がある。光の影響下で分解し、有毒なフューム(塩化水素、窒素酸化物など)を生じる。日光により分解し、ホスゲンが生成される可能性がある。
[環境汚染の持続時間]
環境中で比較的安定で、ゆっくりと揮発する。
IV.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[中毒量]
1ppm 流涙、痛み
4ppm 数秒間の曝露で行動不能となる。
15ppm 数秒間の曝露で呼吸・気道障害を起こす。
0.1ppm 長時間作業における無影響レベル
約 1ppm 短時間作業における無影響レベル、感知可能濃度
約 2ppm 催涙濃度
約 5ppm 不耐濃度
約10ppm 長時間曝露における致死濃度
約100ppm 短時間曝露(30分)における致死濃度
約300ppm 極めて短時間曝露(10分)における致死濃度
[致死量]
297.6 ppm(=2 mg/L=2,000mg/m3)/10分
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
クロールピクリン CAS: 76-06-2 | |||||
ppm | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | 0.05 | 0.05 | 0.05 | 0.05 | 0.05 |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.15 | 0.05 | 0.05 | 0.05 | 0.05 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 2.0 | 2*0 | 1.4 | 0.79 | 0.58 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
許容濃度:日本産業衛生学会:0.1ppm(0.7mg/m3)
ACGIH:(時間荷重平均値)0.1ppm(0.7mg/m3)
(短時間曝露限度)0.3ppm(2mg/m3)
TLV-TWA:0.1ppm(0.7mg/m3)
OSHA-PEL:(0.1ppm(0.7mg/m3)
OEL-TWA: 0.1ppm(0.7mg/m3)
臭い閾値:1.1ppm、 7.3mg/m3
中毒作用機序
活性化されたハロゲン基を持つ SN2(2分子置換反応)アルキル化剤で、SH基と強く結合する性質があり、眼粘膜や鼻粘膜の知覚神経終末でSH含有酵素を阻害する。その結果、疼痛、流涙、鼻汁などを引き起こす。
クロルピクリンは水に溶けにくいため上気道よりも中・細気管支を傷害する。
これに対し、塩素は喉頭など上気道に作用し、ホスゲンは肺胞を強く傷害し肺水腫に至る。
体内動態
[吸収]
[代謝]
IV.2.3.症状
概要
詳細症状
(動物、長期曝露)下気道傷害(線維形成性気管支周囲炎、細気管支周囲炎)が後遺症として残ることがある。
低血圧、中心静脈圧上昇、肺血管抵抗上昇、全末梢血管抵抗低下
検査
粘膜損傷の程度を観察するのに有用であるが、穿孔の危険性を伴うため慎重にすべきである。
IV.2.4.治療
概要
詳細
新鮮な空気の下に移動。呼吸不全を来していないかチェック。保温し、安静を保つ。
咳や呼吸困難のある患者には、必要に応じて気道確保、酸素投与、人工呼吸等を行う。多量吸入時や呼吸器系症状のある場合、胸部X線検査を行う。喉頭痙攣では気管挿管し、人工呼吸が必要である。喉頭痙攣、喘鳴は気管支拡張薬の吸入治療を考慮する。気管支のれん縮が起きている場合には、サルブタモールの吸入やアミノフィリンの投与を行う。高濃度酸素の吸入をしてもPaO2が上昇しなければ肺水腫の発生に注意し、気管挿管を行い十分な加湿とともに人工呼吸(持続的陽圧呼吸)が必要である。ウサギの肺水腫に対して前投薬としての抗ヒスタミン剤の静注は有効。曝露後(特に症状出現後)に投与した場合の有効性は不明である。気管支肺炎:細菌感染の関与があれば、抗生物質を使用する。ステロイドは一般に無効である。肺の炎症反応軽減目的で短期間(2-4日)ステロイドを投与してもよいが、エビデンスは無いうえ、易感染性を引き起こす可能性もある。遷延性に閉塞性細気管支炎や二次性気道感染を起こすことがあるので、注意深く観察する。
直ちに大量の微温湯で15分間以上洗浄する。 眼はこすらない。
強い眼刺激、角膜損傷を起こす可能性があるので、洗浄後、早期に眼科的診察を受けるのが望ましい。刺激が続く場合、眼科用ステロイド剤または局所麻酔剤含有眼軟膏が時に必要。
直ちに付着部分を石鹸と流水で十分洗う。皮膚から除去されるスピードが極めて重要となる。
刺激感、疼痛が残るなら医師の診察が必要。皮膚の熱傷がある場合、標準的外用剤による熱傷治療を行う。皮膚の過敏反応を示す患者はステロイド剤または抗ヒスタミン剤の全身投与または塗布治療を行う。皮膚炎が1時間以上続く場合、ビューロウ溶液(1:40)での湿布包帯、ステロイド剤またはカラミンローションを塗布する。二次感染がある場合、抗生剤治療が必要。痒みには抗ヒスタミン剤の経口投与が有用。メトヘモグロビン血症の場合には、メチレンブルーの投与を考慮。
痙攣対策を行った上で注意深く実施する。
経過観察
IV.3.ホスゲン(CG)
概要
窒息剤に分類される化学兵器。1915年にドイツ軍が塩素とホスゲンの混合ガスを初めて使用、その後ドイツ軍、連合国軍ともにホスゲンを使用した。第一次世界大戦中の化学兵器による死者の約80%はホスゲンによるものだったとされている。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された (日本は1970年に批准)。旧日本陸軍では1931年(昭和6年)に「あを一号」として武器として採用、大久野島において製造された経緯がある。1985年2月にベトナム軍がタイ・カンボジア国境で使用したロケット弾からもホスゲンが検出されている。1994年9月には、オウム真理教の信者4人がジャーナリストの江川紹子をホスゲンで襲撃した。1995年3月の強制捜査以降で一連のオウム事件が発覚した際に同事件の立件も浮上したが、被害が重大でないことを理由に起訴猶予処分となった。また、ホスゲンは別称二塩化カルボニルと呼称され、ポリカーボネイトやポリウレタン等の原料となる非常に重要な産業毒性物質の一つで、2008年5月、無許可でホスゲンを製造していたとして化学兵器禁止法違反(製造の無届け)の疑いで、経済産業省が石原産業を告発した例がある。無色、牧草または干し草臭のある気体で、加圧あるいは冷却により無色~淡黄色の液体となる。粘膜刺激作用が強く、特に吸入曝露により呼吸器(主に下気道)を刺激し、呼吸器症状が出現する。窒息剤の吸入毒性はホスゲン>クロロピクリン>塩素の順に強い。空気より重く、低所では特に危険性が高まる。咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛が一般的にみられる。肺水腫が出現するのが特徴的で、高濃度曝露では急激に出現するが、低濃度では8~24時間、ときに72時間まで遅れることがある。二次汚染を防ぐため、皮膚刺激症状のある除染が必要な患者や汚染された物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。
IV.3.1.物性
常温で無色の気体、加圧あるいは冷却により無色~淡黄色の液体である。生牧草または干し草に似た臭い、低濃度ではカビ臭い干し草の臭い、高濃度では刺激臭、室温では腐敗した果物臭がある。窒息剤の物性は、水溶性により、アンモニアの様に高い水溶性を示すものとホスゲンのように低い水溶性のもの、塩素のようにそれらの中間の水溶性を呈するものとに分けられる。臨床的には水溶性が高ければ上気道の病変が主体となり、低ければ下気道の病変が主体と成り、中間の水溶性であれば、上気道、下気道共に侵されることになる。このようにホスゲンは、水溶性が低いがゆえに症状の無い潜伏期にその後の呼吸悪化を予測することが困難となる。
[構造式]
[分子量]98.91
[比重]
[沸点]8.2℃
[融点]-118℃
[揮発度]
[溶解性]
[反応性]
湿った空気中ではよりゆっくりと分解する。
COCl2 + H2O →2HCl + CO2
熱により、一酸化炭素と塩素に分解する。
COCl2 → CO + Cl2
[環境汚染の持続時間]
気温10℃、雨の降っている中程度の風のある日 ;数分
気温15℃、晴れで、微風のある日 ;数分
気温-10℃、晴れで、風がなく、雪が降っている日;15分~1時間
比較的乾燥した土壌には強く吸着されるが、水分含量の高い土壌では揮発、二酸化炭素と塩酸とに加水分解がおこりうる。
IV.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
ヒトの吸入毒性は 窒息剤の中では最も強い(ホスゲン>クロルピクリン>塩素)。高濃度のホスゲンを吸入すると早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解によって生じた塩酸によって刺激症状が生じる。
毒性
[中毒量]
吸入ヒト;TCLo:25ppm/30分
[致死量]
吸入ヒト;LCLo:25ppm/30分
吸入ヒト;LCLo:50ppm/5分
吸入ヒト;LCLo:♂360mg/m3/30分
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
ホスゲン CAS: 75-44-5 | |||||
ppm | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | NR | NR | NR | NR | NR |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.6 | 0.6 | 0.3 | 0.08 | 0.04 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 3.6 | 1.5 | 0.75 | 0.2 | 0.09 |
(致死レベル) |
NR:データ不十分により推奨濃度設定不可
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
許容濃度:LV-TWA::0.1ppm(約0.40mg/m3)
OSHA-PEL:0.1ppm
IDLH::2ppm
中毒作用機序
上気道では加水分解を受けにくいので、刺激は少ない。
ホスゲンが細気管支や肺胞に達して水分に触れると、加水分解が起こり塩酸を生じ、肺水腫、気管支肺炎、まれに肺膿瘍を引き起こす。肺毛細血管の透過性が亢進し、血漿成分が肺間質や肺胞内に漏出し、肺水腫を起こす。循環血漿量の30~50%が肺胞内に漏出し、”陸上溺死”の状態になり、血液濃縮、循環障害、組織低酸素をきたす。
生じた塩酸が関与するのはわずかで、主にアシル化反応による。肺水腫の発現は肺ATP濃度、Na-K ATPase活性の低下や他の肺酵素阻害と相関する。
液化ホスゲンは皮膚につくと化学熱傷、眼に入ると角膜混濁を起こすことがある。
体内動態
[吸収]
[代謝]
[排泄]
IV.3.3.症状
概要
一般的に曝露後数時間~24時間で咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛などが出現する。極めて少量曝露の場合、数時間~24時間後に激しく運動すると、軽度の息切れがみられるが、後にわずかな運動だけでも息切れすることがある。少量曝露の場合、曝露後数日経過して肺炎が出現することがある。大量曝露では、数時間で重度の咳、呼吸困難、喀痰を伴う肺水腫が出現することがある。極めて大量曝露の場合、まれに数分以内に喉頭痙攣が出現し、死亡することがある。曝露がなくなると、症状は消失するが、高濃度の場合には症状が再燃し、肺水腫を引き起こすことがある。>50ppm/分では1~4時間以内、<50ppm/分では8~24時間以内に症状が再燃することがある。
初期症状の発現はガス濃度に依存し、後期症状の重症度は濃度と曝露時間の積である総吸入量に依存する。
詳細症状
<3ppm:上気道刺激はみられない(しかし遅発性の肺水腫を起こすことはある)。
胸部X線で、両側の間質性陰影と聴診上両側の断続性ラ音crackle聴取。
頻呼吸:浅い頻呼吸がみられることがあるが、濃度とは無関係で一貫性がなく、一般的に前兆ではない。
肺水腫:高濃度曝露では1~2時間、中等濃度曝露では4~6時間、低濃度曝露
では8~24時間以内に胸部X線検査で、肺水腫像がみられることがある。72時間まで遅れることもある。
慢性肺気腫、慢性気管支炎、気管支拡張症、肺線維症を来たす。
症例報告では、数週間で呼吸器機能は正常範囲内に戻るが、完全な回復には数年かかったという。
<3ppm:眼刺激作用はない。
(液体)眼に入ると、強い眼刺激作用、角膜混濁、穿孔(1例報告)
<3ppm:鼻腔の粘膜刺激症状はないが、遅発性の強い作用を示すことがある
>3ppm:咽喉刺激、咽喉・口腔内の発赤、胸部圧迫感(一般的)
検査
IV.3.4.治療
概要
特異的解毒剤・拮抗剤はない。基本的処置を行った後、対症療法を行う。呼吸・循環器機能の維持管理を行う。
詳細
呼吸不全が進行する場合は人工呼吸(持続的陽圧呼吸)が必要。
本剤は第一次世界大戦当時、ホスゲン用防毒マスクの吸収缶の中に中和剤の1つとして入っていた。
必要ならば、上記吸入の場合に準じて治療する。
経過観察
IV.4.ジホスゲン(DP)
概要
窒息剤に分類される化学兵器。第一次世界大戦中、ドイツ軍は化学兵器(窒息ガス)として最初は塩素を使用していたが、塩素用防毒マスクが開発されたため、当時のガスマスクでは防げない毒ガスとしてホスゲンに切り替えた。初めてホスゲンが使用された数か月後に、ジホスゲンは化学兵器として開発された。
ジホスゲンは、ホスゲン対応のガスマスクのフィルターを破壊するためにクロロホルムを加え手合成したものである。環境中では、ホスゲンとクロロホルムに分解し、中毒作用を示す。クロロホルムにより、流涙などの粘膜刺激症状を示すが、クロロホルムによる全身中毒症状を示すことは無い。最初に記録された戦場での使用は1916年である。常温で液体のジホスゲンの取り扱いの危険性は常温で気体のホスゲンより低い。そのため、ホスゲンが必要な場合にはジホスゲンの状態で(密封タンクなどで)輸送し、使用場所で分解させることによってホスゲンを得るといったことも行われる。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年批准)。
常温では無色の液体で、ホスゲンに似た刈りたての干し草臭がある。アルカリ物質、水分との反応、加熱などによって分解し、ホスゲンを生じ、中毒作用を示す。粘膜刺激作用が強く、特に吸入暴露により呼吸器(主に下気道)を刺激し、呼吸器症状が出現する。窒息剤の吸入毒性はホスゲン>クロロピクリン>塩素の順に強い。ホスゲンは空気より重く、低所では特に危険性が高まる。咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛が一般的にみられる。肺水腫が出現するのが特徴的で、高濃度暴露では急激に出現するが、低濃度では8~24時間、ときに72時間まで遅れることがある。二次汚染を防ぐため、皮膚刺激症状のある除染が必要な患者や汚染された物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。
IV.4.1.物性
常温では無色の液体。ホスゲンに似た刈り立ての干し草臭、刺激臭がある。
[構造式]
[比 重](液体)1.6525(14℃)
[沸 点]
[蒸気圧]10mmHg(20℃)
[溶解性]
IV.4.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
吸入、経口摂取いずれも非常に毒性が強く、組織に対して強い刺激性がある。
[中毒量]
[致死量]
IV.4.4.治療
特異的解毒剤・拮抗剤はない。基本的処置を行った後、対症療法を行う。
呼吸・循環器機能の維持管理を行う。
詳細はホスゲンのIV.3.4.項を参照。
V.催涙剤
V.1.クロロアセトフェノン(CN)
概要
CNはCS、CA、CR、OCと同じく、催涙剤に分類される。暴徒鎮圧用あるいは護身用スプレーとして使用されている。 化学名クロロアセトフェノンで、無色または黄色~茶色の結晶性固体である。刺激臭があり、低濃度蒸気はリンゴの花の香りに似ている。水溶液中で安定である。CNは1871年にドイツの Graebeにより初めて合成され、第一次世界大戦末期の1918年に米国において毒ガス(催涙剤)として開発された。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された(日本は1970年批准)。CNはCSが開発されるまで主要な催涙剤であった。わが国においても旧日本陸軍が1931年(昭和6年)に「みどり剤二号(みどり剤一号は臭化ベンジル)」として制式化され、広島県大久野島で製造・貯蔵された。なお、旧海軍では一号特薬と呼称している。
ベトナム戦争では米軍・南ベトナム政府が使用した。CNをさらに強化する目的でCNB (CNにcarbon tetrachloride、benzeneを配合したもの)、CNC(クロロアセトフェノンをクロロフォルムに溶かしたもの)、CNS(CN、クロロフォルム、クロルピクリンの合剤)が作成されたが、CSのほうが効果がありかつ毒性が低いので、CSにとって代わられた。1970年前後に日本でも警察機動隊がデモ鎮圧のために使用した。溶解し、充填した製品が日本に輸入されていることが確認されている。護身用として使われるものには、TW®シリーズ、メイス®などが知られ、口紅型、ペン型、ライター型、警棒型など種々の形があり、容器に「CN」と表示されているものもある。護身用スプレーは、最近では、カプサイシンやペッパースプレーが広く使われるようになっている。
催涙作用はCR> CS> CN> CAの順に強く、吸入毒性はCN > CS> CRの順である。曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じる。通常、作用は一過性であるが、密閉された場所で曝露されると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現し、死亡の可能性もある。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。
V.1.1.物性
無色の結晶、黄色~茶色の固体。鋭い、刺激性の、強烈な、花のような臭いがある。
低濃度蒸気はリンゴの花の香りに似ている。
[構造式]
[分子量]154.59
[比重]1.3
[沸点]244-245℃
[融点]54℃
[凝固点]20-59℃
[蒸気圧]
[揮発度]105mg/m3(20℃)
[引火性]可燃性あり
[溶解度]
アセトン、二硫化炭素に溶ける。
[反応性]
炭酸ナトリウムの温水溶液によって加水分解し、無害の物質 (C6H5COCH2OH)を生じる。
熱せられると爆発性のある蒸気を発生させる。従って、容器を熱すると爆発の可能性がある
護身用スプレー:
剤形:口紅型、ペン型、ライター型、ピストル型、警棒型など種々
容量:携帯用に20~75mLの小型のものが多いが、事務所・店舗用に400mL、 520gと大型のものもある。
表示:容器に”CN”と表示されているものもあるが、日本では表示基準は定められていない。
V.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
直径約0.3-0.5μの粒子が噴霧されると末梢気道にまで入り込む。
(強い臭い;0.15mg/m3)
[中毒量]
ヒト不能濃度:5-15mg/m3、5~20mg/m3
軍用有効濃度:>約10mg/m3
刺激作用:>0.15-0.4mg/m3
催涙作用:>0.3-0.4mg/m3
[致死量]
吸入ヒト推定半数致死量(LCt50):10,000mg-分/m3
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 未設定
[その他の毒性]
許容濃度: ACGIH-TLV-TWA;0.05ppm(約0.32mg/m3 )
OSHA PEK-L-TWA一過性限界値:0.05ppm(約0.3mg/m3 )
NIOSH-IDLH:3ppm:100mg/m3
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
V.1.3.症状
概要
詳細症状
咽喉痛、咳、くしゃみ、胸部絞扼感;曝露直後より起こるのが特徴的で、曝露後数週間続くことがある。
声門痙攣;刺激作用のために曝露直後より起こることがあるが、 1-2日間遅れて出現することもある。
気管支漏
喉頭気管気管支炎、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫;
密閉空間での曝露後、1-2日遅れて出現することがある。
症状が遷延する例もある。
嘔吐;時にみられる。
流涎
(経口摂取)上腹部不快感、胃腸炎
食道及び消化管の刺激または熱傷が起こることが予想される。
眼瞼痙攣、発赤、腫脹、角膜剥離を伴う化学損傷
角膜混濁、大量曝露で永久的な混濁
動物で永久的な角膜損傷や眼壊死の報告がある。
閉所で使用された場合、失明の可能性もある。
検査
V.1.4.治療
概要
特異的な解毒剤や拮抗剤はないので、対症療法を行う。
咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状のみがみられる患者は曝露場所を離れるだけで、 通常、治療を必要としない。症状がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。
詳細
眼はこすらない。洗眼する場合には、剤の小粒子や容器の破片などが眼に入っていないかを確認する。
抗生物質やステロイド剤の点眼、鎮痛剤の投与、散瞳薬が必要となることもある。
痙攣がある場合は痙攣対策を行った上実施する。
経過観察
高濃度曝露の場合、数週間の経過観察を要することもある。
V.2.オルトクロロベンジリデンマロノニトリル(CS)
概要
CSは非致死性の催涙剤のひとつである。CSは1928年英国の CorsonとStoughtonによって合成され、両者の頭文字をとって名付けられた。1960年代までに催涙剤として世界的に採用され、特にベトナムで米軍・南ベトナム政府により多量に使用された。またCN同様、暴徒鎮圧用に用いられる。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された (日本は1970年に批准)。粉末スプレーや溶剤に溶かしたスプレーがある。化学名o-クロロベンジリデンマロノニトリルで、胡椒様臭のある白色の結晶性固体。速やかに加水分解する。催涙作用はCR>CS>CN>CAの順に強く、吸入毒性はCN>CS>CRの順である。曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じる。通常、作用は一過性であるが、密閉された場所で曝露すると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現することがある。構造中にシアンを含むが、体内で遊離されるシアン化合物による中毒は起こらないと考えられる。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。しかし、密閉された空間での使用など誤用された場合、死亡例も報告されている。また、催涙ガス弾が直接顔面に当たるなどして失明した例、頭部に当たって植物状態になった例など後遺症も報告されている。また、将棋倒しによる死亡の可能性もあるが、南米ベネズエラの首都カラカスのナイトクラブで2018年6月、催涙ガス弾が爆発し、未成年8人を含む17人が死亡した。何者かが催涙ガス弾を爆発させたとみられる。客が出口に殺到し、押し合う形になったという。Haarらによると、OCをはじめとする催涙剤は、暴徒鎮圧には限られた効果しかなく、疾病罹患はもとより死亡例を出すことすらあり、使用すべきではないとしている。
V.2.1.物性
白色の結晶性固体、胡椒様臭がある。
[構造式]
[沸点]93-95℃
[融点]310-315℃
[蒸気圧]
[安定性]
アセトン、ジオキサン、塩化メチレン、酢酸エチル、ベンゼンに溶ける。
V.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[ヒト中毒量]
ヒト不能濃度:1-5mg/m3
ヒト半数不能濃度(1分間曝露時):10mg/m3
軍用有効濃度:>約1mg/m3
吸入ヒト最小中毒量;TCLo:1500μg/m3/90M 結膜刺激、咳
[ヒト致死量]
吸入ヒト致死量;LC:60x103mg/M/m3(推定)
経口ヒト半数致死量(LD50):約200mg/kg または 14g/人
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
催涙ガス CAS 2698-41-1 | |||||
mg/m3 | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | NR | NR | NR | NR | NR |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.083 | 0.083 | 0.083 | 0.083 | 0.083 |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 140 | 29 | 11 | 1.5 | 1.5 |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[その他の毒性]
眼刺激性(ヒト♂ 5mg/m3/20S):強い刺激性あり
発がん性・催奇形性:現時点ではデータなし
動物実験の研究報告では、妊娠に影響は無かった。
頻回投与試験:吸入ラット(100mg/m3/6H/14D-I):催涙、死亡
吸入マウス(10mg/m3/6H/14D-I):死亡
腹腔内(160mg/kg/10D-I):肝臓重量・胸腺重量の変化
(参考)
許容濃度:TLV-TWA:0.05ppm(約0.39mg/m3)
OSHA PEK-L-TWA一過性限界値:0.05ppm(約0.4mg/m/ 3)
IDLH(生命に直ちに危険または死亡):2mg/m3
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
[分布]
[代謝]
[排泄]
V.2.3.症状
概要
眼症状、呼吸器症状:数分から数時間
胸部絞扼感:1日間
反応性気道機能不全(Reactive Airways dysfubction syndrome:RADS): 数ヶ月から数年
詳細症状
うっ血性心不全;成人で高濃度のCS曝露後に報告された例がある。
嘔吐;時にみられる。
流涎
(経口摂取)上腹部不快感、胃腸炎、腹部痙攣、下痢
V.2.4.治療
概要
咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状のみがみられる患者は曝露場所を離れるだけで、通常、治療を必要としない。症状がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。
詳細
V.3.ブロムベンジルシアニド(CA)
概要
CAは非致死性の化学兵器である催涙剤のひとつである。 CAは1881年に Reimerにより合成され、1914年に純品で単離された。第一次世界大戦中、フランス軍により「カーミット」の名称で初めて毒ガスとして使用されたが、現在は使用されることは少なく、催涙剤としての重要性は低い。 催涙剤としては、致死性が高いものの、びらん剤や神経剤に比べると致死性は低く、中途半端なため、使われなくなった。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された(日本は1970年に批准)。
化学名α-ブロムベンジルシアニドBromobenzyl cyanide (BBC) で、黄色みを帯びた結晶性固体。酸っぱい果物臭がある。吸入毒性はCNにほぼ匹敵する強さであるが、催涙作用は弱く、CR>CS>CN>CAの順である。曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じる。通常、作用は一過性であるが、密閉された場所で曝露されると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現することがある。構造中にシアンを含むが、体内で遊離されるシアン化合物による中毒は起こらないと考えられている。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。しかし、密閉された空間での使用など誤用された場合、死亡の可能性もある。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。
V.3.1.物性
黄色みを帯びた結晶性固体、酸っぱい果物臭がある。
[構造式]
[分子量]196.05
[沸点]132-134℃
[融点]29℃
[蒸気圧]
[蒸気密度]6.8(空気=1)
[引火点]可燃性のありなし
[溶解性]
[反応性]
[環境汚染の持続時間]
V.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
最小中毒量、最小致死量は確立されていない。体内でシアン化物を多量に遊離することはないので、シアン中毒を起こすことは少ない。加熱すると分解し、有毒フューム Br-、NOx、CN-を発生する。臭い閾値(最小検出濃度):0.09mg/m3
[中毒量]
催涙作用:>0.3-0.5mg/m3
[致死量]
推定致死量:0.90mg/L(30分)
(参考)
許容濃度:設定されていない。
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
[代謝]
V.3.3.症状
概要
詳細症状
V.3.4.治療
概要
咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状のみがみられる患者は曝露場所を離れるだけで、通常、治療を必要としない。症状がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。
詳細
V.4.ジベンゾオキサゼピン(CR)
概要
CRは催涙剤で、暴徒鎮圧・護身用スプレーである。1962年に合成され、新しく開発された催涙剤で、CSより毒性が低いことから暴徒鎮圧用に注目を集めている。しかし、実際にはあまり使用されていない。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された(日本は1970年批准)。
化学名ジベンゾオキサゼピンで、淡黄色の固体。水溶液中で安定で、水中でも刺激作用を保持している。催涙作用は催涙剤のなかでも最も強いが(CR>CS>CN>CA)、吸入毒性は低く、CN>CS >CRの順である。揮発性が低く、呼吸器(下気道)への作用がほとんどない点を除き、CN、CSと同様の作用を示すと考えられる。曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じるが、通常、作用は一過性である。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。
V.4.1.物性
淡黄色の固体である。
[構造式]
[分子量]159.23
[融 点]72℃
[蒸気圧]
[溶解性]
[反応性]
[環境汚染の持続時間]
V.4.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
作用は皮膚、眼に限局し、蒸気圧が低いため気道への作用はほとんどない。
CNでは密閉空間曝露でヒト死亡例があるが、CRではそのような報告はない。
非常に高濃度のCRエアゾール(78,200、 140,900、 161,300mg・分/m3)をラットに曝露してもごくわずかの肺損傷がみられるだけである。
[中毒量]
[致死量]
[その他の毒性]
眼刺激性(ウサギ 5mg):弱い刺激性あり
発がん性:吸入マウス;204mg/m3/18W-I:発がん性あり
(参考)
許容濃度:設定されていない。
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
V.4.3.症状
概要
詳細症状
嘔吐;時にみられる。
流涎
(経口摂取)上腹部不快感、胃腸炎
皮膚炎や化学損傷は起きにくい。
検査
V.4.4.治療
概要
咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状のみがみられる患者は曝露場所を離れるだけで、通常、治療を必要としない。症状がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。
詳細
V.5.カプサイシン(OC)
概要
OC(いわゆるpepper sprayでOleoresin Capsicumの略)はCN、CS、CA、CRと同類で、催涙剤に分類される。暴徒鎮圧用あるいは護身用スプレーとして使用されている。 一般名オレオレシンカプシカムで、トウガラシ抽出液である。主要成分はトウガラシの辛み成分のカプサイシン(結晶性アルカロイド)で、焼けるような味がある。OC5~13%を溶剤(アセトン、酢酸エチル、メチルアルコ-ル)に溶かし、充填した製品が日本に輸入されていることが確認されている。噴射剤には二酸化炭素、LPG、ダイフロン134aなどが使用されている。ペパーメイス®、ファーストディフェンス®、MK®シリーズ、ガーディアン®などが知られ、口紅型、ペン型、ライター型、警棒型など種々の形があり、容器に「OC」と表示されているものもある。用途としては、暴徒鎮圧、護身用、犬や熊への防御用としても使われる。歴史的には古くは17世紀の明代の中国で、唐辛子を燃やして、戦争に使ったという記録は残っているが、近代以降では、1973年、米国連邦捜査局(FBI)により護身用として使用されたのが最初だとされる。
曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じる。密閉された場所で曝露されると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現することがある。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。しかし、1993年以来、OCを使った逮捕中に70名の死者が出たと報告されている。人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルは、1990年代の初頭から100名以上がOCに曝露した後、死亡しているとしている。いっぽう、逮捕の過程で亡くなった例の大部分は、それが、直接OCの作用によるものかは疑問で他の原因があるとする意見もある。いづれにしても、OCの健康障害に関して大規模の前向きのコホート研究が必要とされる。
V.5.1.物性
焼けるような味がある。
[構造式]
[分子量]305.42
[沸 点]210-220℃
[融 点]65℃
[溶解性]
アルコール、エーテル、ベンゼン、クロロホルムによく溶ける。
二硫化炭素、濃塩酸にわずかに溶ける。石油エーテルに溶ける。
V.5.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[中毒量]
[致死量]
[その他の毒性]
(参考)
治療量:トウガラシ;成人、蠕動運動の促進に約60mg
多くの熱帯の国々の成人は食品として約3g/日摂取している。
許容濃度:
ACGIH-TLV-TWA;0.05ppm(約0.32mg/m3)
OSHA PEK-L-TWA一過性限界値:0.05ppm(約0.3mg/m3)
NIOSH-IDLH:100mg/m3
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
カプサイシンの85%がラット消化管から3時間以内に吸収される。
[分布]
カプサイシンは血液脳関門を通過する。
[代謝]
V.5.3.症状
概要
詳細症状
息切れ、喘鳴、呼吸困難、気管支痙攣、肺水腫が出現することがある。
生後4週児で無呼吸がみられた。
(慢性吸入)慢性気管支炎(気管支拡張症になることがある)
(ラット、注射)初め血圧低下、一過性に血圧上昇、ついで再び血圧低下が認められた(アドレナリン受容体またはコリン受容体いずれに対する処置も無効であった)。
カプサイシン含有植物を噛むと、唇、舌、口腔粘膜に強い刺すような痛みを引き起こす。上皮細胞の腐肉形成、または軽度の粘膜出血が起こることがある。
(慢性)消化管上皮の損傷・破壊、粘膜表面は軽度紅斑~浮腫、微小出血を示す。
(慢性・長期曝露)水疱、皮疹
手;トウガラシ加工労働者にみられる手の皮膚炎で、大半の症例は焼けるような感覚と軽度の紅斑を示すのみで、通常、熱傷はみられない。
トウガラシを毎日食べるタイの人々では、線維素融解性の増大、血液凝固能の低下がみられる。
検査
V.5.4.治療
概要
詳細
眼はこすらない。
コンタクトレンズは直ちに外す。
カプサイシン50μg/Lに曝露した動物の眼を局所麻酔薬で治療すると、疼痛は軽減したが紅斑は変わらなかった。
手を30分以上浸す。重篤例では数時間の浸漬が必要となることがある。
冷たい水道水に浸すと疼痛は速やかに軽減されるが、植物油浸漬では疼痛の軽減が長く持続する。
リドカイン・プリロカインエマルジョン塗布後約1時間で疼痛が 軽減された。
49名の警察学校でのボランティアを被験者とした研究では、アルミニウムハイドロキサイド懸濁液、2%リドカインゲル、ベビーシャンプー、牛乳、水、の各群で疼痛緩和に差が見られなかったとの報告もある。
経過観察
症状が続く場合、1~2日間観察する。
VI.催吐剤
VI.1.アダムサイト(DM)
概要
アダムサイトは吸入すると嘔吐を引き起こすため、催吐(嘔吐)剤に分類される。くしゃみ剤と言われることもある。アダムサイトが初めて合成されたのは、ドイツであったとされている。1918年に米国イリノイ大学のAdamsにより製造が完成し、その名にちなみ、アダムサイトと名づけられた。ベトナム戦争で用いられたアダムサイトと催涙ガスの混合物(米軍のいわゆるDM-CN)は特に催吐作用が強く、致死性がある。純品は常温で無臭の緑がかった黄色の結晶で、ほとんど揮発しない。通常、エアゾールとして微粒子を空中に散布する。散布時は無色無臭である。曝露数分後より、眼・鼻・咽喉の粘膜刺激、くしゃみ、咳などが出現する。作用は催涙剤に類似しているが、毒性は催涙剤より強い。構造中にヒ素を含むが、通常、全身性のヒ素中毒が起きるとは考えにくい。特異的な解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された(日本は1970年批准)。
嘔吐剤には、アダムサイト(DM)のほか、ジフェニルクロロアルシン(DA)、ジフェニルシアノアルシン(DC)などが知られている。DA、DCは旧軍ではあか剤と呼ばれていた。嘔吐剤の目的は、暴徒鎮圧剤として使われる目的と、化学戦の際にガスマスクを外させる目的があった。
VI.1.1.物性
純品は常温で無臭の緑がかった黄色の結晶である。散布時は無色無臭であるが、煙が濃縮されると緑がかった黄色を呈する。DAは無色の結晶、DCは白色の固体、アダムサイト(DM)とDAは無臭だが、DCはニンニク臭、若しくはビターアーモンド臭がある。
[構造式]
[分子量]277.59
[比重]
[沸点]410℃(分解)
[融点]195℃
[蒸気圧]
[揮発度]
[溶解性]
ベンゼン、キシレン、四塩化炭素にはわずかに溶ける。
有機溶媒ではアセトンに最も良く溶ける(13.03g/100g、15℃)。
[反応性]
加熱すると加水分解して濃橙紅色の物質を生じる。
VI.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[中毒量]
眼刺激作用(TC50):0.5mg/m3
(TC50;1分間曝露時半数のヒトが刺激を感じる最低濃度)
最低刺激濃度;0.1mg/m3
呼吸器(下気道)刺激濃度;0.5mg/m3
嘔吐誘発量:確立されていないが、約370mg・分/m3 と推定されている。
(4.6~144mg・分/m3 では10%以下の人に嘔気が認められた。)
[致死量]
吸入ヒト推定致死量(LC):15,000mg・分/m3
3,000mg/m3 に10分間曝露
650mg/m3 に30分間曝露
中毒作用機序
眼・鼻・咽喉粘膜の知覚神経終末でSH含有酵素を阻害し、疼痛、流涙、くしゃみ、咳等を引き起こす。
体内動態
[吸収]
(22mg/m3の濃度で一時的に行動不能となるのに要する時間は1分である)
VI.1.3.症状
概要
詳細症状
(高濃度)密閉された場所で曝露されると、肺水腫を含む重篤な肺損傷を引き起こし、まれに死亡することもある。
症状が進行すると、抑うつがみられることもある。
(高濃度)密閉された場所で曝露されると、運動失調、知覚異常、麻痺、意識喪失を引き起こすことがある。
(高濃度)密閉された場所で曝露されると、角膜壊死を引き起こすことがある。
(高濃度)焼けるような感覚、紅斑、疼痛、水疱形成、限局性腫脹
検査
アダムサイトは、分解産物の測定が困難であるが、血中、尿中の有機砒素を測定することは意味があるとされる。
VI.1.4.治療
概要
詳細
直ちに大量の流水で洗眼する。眼はこすらない。
経過観察
喘息など肺疾患の既往歴のある患者は症状が悪化する可能性があるので、観察が必要である。
VII.無力化剤
VII.1.キヌクリジルベンザレート(BZ)
概要
BZとLSDに代表される無能力化剤(無力化剤)は、致死性は低いが、少量の曝露でも著しい精神障害をきたして、兵士が命令を認識したり遂行したりできなくなり、戦闘不能にすることを目的とするものである。
BZは、ムスカリン受容体マーカーの実験用試薬であるQNB(3-quinuclidinyl benzilate)と同物質である。BZは抗コリン剤で、いわゆるグリコール酸(glycolate)である。刺激性はなく、症状の発現が30分から20時間程度迄遅れるため、それまで曝露に気付かないこともある。エアゾールとして散布される。米軍は1960年代から化学兵器として保有した。加熱により分解してNOxフユームを発生するため、熱を発生するような兵器(ミサイル等)に搭載することもできる。しかし、症状発現までに時間を要する上に曝露によって狂暴性を帯びることがあることがわかり、化学兵器としては逆効果なため、1989年10月までに廃棄処理された。イラクが湾岸戦争当時に大量に保有していたAgent15は、BZと類似もしくは同一の物質とみられる。また、1995年7月ボスニア・ヘルツェゴビナにおける紛争において使用されたとされている。特異的解毒剤としてフィゾスチグミンがある(日本では未承認)。「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」に該当する物質である。室内、屋外で散布するときは、微細な粉状か、液体に溶かしてエアロゾル化して散布される。水、食料も汚染させることが可能である。
VII.1.1.物性
白色無臭の結晶である。
[構造式]
[分子量]337.45
[比重]
[沸点]320℃
[融点]164-167℃
[引火性]可燃性あり
[溶解性]
[反応性]
半減期 3~4週間(湿気がある大気中)
加熱により分解してNOxフユームが発生する。
熱に強い(ミサイル搭載可)
可燃性であるが爆発性は低い。
金属と反応して可燃性の水素ガスを発生する。
VII.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[ヒト中毒量]
静注もしくは筋注による毒性の80%
ヒト半数最小影響量(MED50)(軽度の認知力障害を起こす最小量):
2.5μg/kg(24時間以内に回復)
ヒト半数不能量:6.2μg/kg
(参考として類似の作用機序を持つアトロピンでは140μg/kg)
静注による毒性の40~50%(直径1.0ミクロン粒子吸入の場合)
ヒト半数不能量:110mg・分/m3、112mg・分/m3
[ヒト致死量]
[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]
BZ CAS:6581-06-2 | |||||
mg/m3 | |||||
10分 | 30分 | 60分 | 4時間 | 8時間 | |
AEGL 1 | NR | NR | NR | NR | NR |
(不快レベル) | |||||
AEGL 2 | 0.067 | 0.022 | 0.011 | NR | NR |
(障害レベル) | |||||
AEGL 3 | 1.2 | 0.41 | 0.21 | NR | NR |
(致死レベル) |
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[その他の毒性]
発がん性:IARC発がん分類 未分類
(参考)
許容濃度:日本産業衛生学会勧告値;未設定
ACGIH勧告値;短時間曝露限界値(TLV-STEL)記載なし
時間荷重平均(TLV-TWA) 記載なし
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
バイオアベイラビリティ :経口 約80%
(静注と比較した吸収率) 吸入 40~50%(1ミクロン粒子)
経皮 5~10%(プロピレングリコール溶解液塗布)
[分布]
血液脳関門通過性:あり
[代謝]
[排泄]
VII.1.3.症状
概要
第1期(0~4時間):散瞳、口渇、頻脈等のアトロピン様症状、軽度の中枢症状
第2期(4~20時間):混迷状態、運動失調、発熱
第3期(20~96時間):せん妄状態(刻々と変化する)
第4期(回復期):パラノイア、深い睡眠、覚醒、這う登る等の徘徊、失見当識
健常人では特に治療しなくても通常2~4日で回復するが、曝露量に依存する。
詳細症状
頻脈(後に正常もしくは徐脈となることがある)、不整脈(大量曝露時)
データなし
運動失調、失見当識、混迷、めまい、幻覚、意識レベルの低下
脱力、理解力・判断力・注意力・記憶力の低下、言語障害
口渇、嘔吐、消化管運動の抑制
尿閉
眼:散瞳、視力障害
皮膚:皮膚の乾燥、紅潮
その他:発熱
検査
VII.1.4.治療
概要
治療の概要
一般的救命処置、体温コントロール
フィゾスチグミン投与(但し、日本では医薬品として承認されていない)
(体温及び他のバイタルサインが適切に管理された場合のみ投与を考慮)
フィゾスチグミン投与
経過観察(悪化する可能性もあるので数日間は医師の監視下におく)
詳細
救助者は汚染環境下では個人防護装備を着用のこと
咳や呼吸困難のある患者には、必要に応じて気道確保、酸素投与、人工呼吸等を行う。
血圧低下に対しては、カテコラミンを使用した循環管理
不整脈に対しては、抗不整脈薬等の適宜使用
フィゾスチグミン:日本では医薬品として承認されていない。
作用機序:アセチルコリンエステラーゼを阻害し、アセチルコリン濃度を上昇させ、BZに拮抗する。第三級アミンで血液脳関門を通過するため、中枢症状も改善する。
参考) ピロカルピン、ネオスチグミン等の第四級アミンは血液脳関門を通過しないため中枢症状には効果がない。
必要に応じて、上記吸入の場合に準じて治療する。
直ちに付着部分を石鹸と水で十分洗う。
手袋は皮膚吸収率が低い(5-10%)ので、必要ないとする文献もある。
洗浄後も刺激感、疼痛が残るなら医師の診察が必要である。
必要に応じて、上記吸入の場合に準じて治療する。
直ちに大量の微温湯で少なくとも15分間以上洗浄する。
洗浄後も刺激感、疼痛、腫脹、流涙、羞明が続く場合は、眼科的診察を受ける。
必要に応じて、上記経口の場合に準じて治療する。
VIII.くしゃみ剤
VIII.1.ジフェニルシアノアルシン(DC)
概要
ジフェニルシアノアルシン(DC)は、ジフェニルクロロアルシン(DA)の催吐作用とシアン化合物としての致死作用を組み合わせることを目的として開発され、1918年ドイツ軍によって初めて使用されたが、致死作用に関しては立証されなかった。ドイツ軍ではDCはDAと同じく青十字(Blue Cross Agent)と呼称されていた。毒性はDAよりも強く、DCもDAと同じく「マスクブレイカー(剤による作用で嘔気を催させ、兵士にマスクを外させる)」としてガス攻撃の当初に使用する。旧日本陸軍では1931年(昭和6年)「あか1号」として制式化されている。当時試験的にDCを経験した研究者は次のようにその効果を表現している。
『あか1号は、くしゃみ剤とされているが、濃度が極めて低い場合にはくしゃみも出るが、我々の体験ではくしゃみ等は出ないで、鼻、喉、胸をかきむしられるように刺激され、居ても立ってもいられない場合が多い。この状態が20分ぐらい続くのだからやりきれない。この苦痛の緩和にコーヒーとコニャックが効果があるとされ、これらにありつけるのがせめてもの慰めであった。』
上記の体験談から、作用効果は非常に速く激烈であるが、一定時間を経過すると回復する状況が理解できる。別称としてClark2がある。
日本では、2003年、茨城県神栖町で、ジフェニルシアノアルシンの分解産物でもあり原料でもあるジフェニルアルシン酸による地下水汚染に起因した有機砒素中毒事例が生じた。
VIII.1.1.物性
無色のガラス状白色の固体、ニンニク臭あるいはビターアーモンド臭がある。微粒子として作用し、濃度が低い場合においても即効的に一時戦闘不能の状態にすることが可能であるが、致死効果は期待できない。
[構造式]
[分子量] 255.1
[比重]
[沸点]
[融点] 31.5℃~35℃
[蒸気圧]
[揮発度] 2.8mg/m3
[相対蒸気密度]8.8(空気=1)
[溶解性]
[反応性]
VIII.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[中毒量]
ヒト吸入ICt50:30㎎・min/ m3(30秒)、20㎎・min/ m3(5分)
[致死量]
毒性はジフェニルクロロアルシン(DA)よりも10倍強い。
(参考)
許容濃度
IDLH (Immediately Dangerous to Life and Health):5㎎/ m3、
時間荷重平均(TLV-TWA): 0.01㎎/ m3
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
VIII.1.3.症状
概要
検査
DCは体内でジフェニルアルシン酸に分解されるため、血液、尿のサンプルを曝露後24時間以内に確保できれば、ガスクロマトグラフィー–質量分析法(Gas Chromatography – Mass spectrometry:GC/MS)で定量できる。
VIII.1.4.治療
概要
詳細
直ちに大量の流水で洗眼する。眼はこすらない。
VIII.2.ジフェニルクロロアルシン(DA)
概要
ジフェニルクロロアルシン(DA)は、くしゃみ剤の中で最も早く(1917年)ドイツ軍が使用した。ドイツ軍ではDAはジフェニルシアノアルシン(DC)と同じく青十字(Blue Cross Agent)と呼称されていた。また、DA等のくしゃみ剤は当時のガスマスクに使用されていた活性炭を通過したため、その効果によって、兵にガスマスクを外させ、致死効果を狙ったホスゲン等の致死性化学剤に曝露させて死に至らしめたとされており、「マスクブレイカー」としてガス攻撃の当初に使用されていた。DAの作用速度は非常に早く、1分間の暴露後、2~3分以内に効果が発現する。DA単独では暴徒鎮圧剤として1930年代まで使用されていた。なお、旧日本陸軍では後述するジフェニルシアンアルシン(DC)と併せて「あか剤」と呼称しているが、DAが採用された記録はない。別称としてClark1がある。
VIII.2.1.物性
純粋の場合無色の結晶であり、加熱すると分解する。その際、塩素、フェニルヒ酸等の有毒なヒュームを生じる。常温では安定であるが、水の存在により容易に加水分解する。
[構造式]
[分子量] 264.6
[比重]
[沸点]
[融点] 37.3℃、39-44℃
[蒸気圧]
[揮発度]
[溶解性]
[反応性]
VIII.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[中毒量]
[致死量]
(参考)有機ヒ素化合物としてヒ素換算による毒性評価は次の通り。
IDLH:5㎎/ m3、TWA:0.01㎎/ m3
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
VIII.2.3.症状
概要
検査
DAは体内でジフェニルアルシン酸に分解されるため、血液、尿のサンプルを曝露後24時間以内に確保できれば、ガスクロマトグラフィー–質量分析法(Gas Chromatography – Mass spectrometry:GC/MS)で定量できる。
VIII.2.4.治療
概要
特異的な解毒剤や拮抗剤はない。対症的に治療する。
詳細
直ちに大量の流水で洗眼する。眼はこすらない。
IX.新興化学剤
IX.1.フェンタニル
概要
米国CDCは、不法薬物としてのフェンタニルだけでなく、テロの手段として意図的に散布等されるフェンタニルについても懸念を表明し、その対応について規定している。同時に、不法薬物としてのフェンタニルが乱用され、その場面にファーストレスポンダーが遭遇したようなケースに対しては、職業上の曝露に対するガイドラインを規定し対応している。このような曝露の可能性のある職業としては、消防、警察、救急隊員、病院関係者等がある。即効性のある合成麻薬であり、意識を失うことなく鎮痛効果を期待できる。中枢神経系に作用し呼吸機能を阻害する。従って、フェンタニルは致死性のこともあり得る。モルヒネの80倍、ヘロインの百倍程度強力であると言われている。人間の機能を失わせてしまう無能力化剤として使用できる可能性がある。なお、無臭である。
フェンタニル自体は、1960年にベルギーのチームがモルヒネ系薬物とは構造の異なる鎮痛薬として合成し、強力で即効性のあるオピオイド系鎮痛薬として世界中で使われるようになった。2002年10月、モスクワ劇場占拠事件においてロシア軍特殊部隊がフェンタニル系の薬物を使用したと言われている。これにより、人質127名が死亡した。(その他のガスが混入されていたかどうかは不明である。英国DSTLの英国人生存者の衣服からの分析では、フェンタニルとカフェンタニルの混合物であったカルフェンタニルとレミフェンタニルのエアロゾルとも、KOLOKOL-1とされる毒ガスであるとも言われている。いずれも超高力価で、特にカルフェンタニルはモルヒネの 10,000 倍以上の効果を有する)この事件で多数の死者が出た一因は、情報提供が適切になされず、駆けつけた救急隊員が必要な解毒薬(ナロキソン)を必要量用意できなかったからだとする意見もある。
近年、米国においてフェンタニルの乱用による死者が激増しており、社会問題となっている。それに伴い、警察や消防といったファーストレスポンダーが現場でフェンタニルに曝露する機会が出てきており、対応が課題となってきた。2016年に死亡した米国の著名な歌手プリンスや、2017年に死亡した米国のロックミュージシャンのトム・ペティも、死因は鎮痛薬のフェンタニル、すなわちオピオイドの過剰摂取によるものであった。なお、CDCの報告書によれば、米国における薬物の過剰摂取による死亡者は年々増えている。1999年時点では10万人あたり6.1人であった死亡率が、2016年には19.8人となったという。これは、2015年の16.3人と比較しても21%増となっている。ちなみに、オピオイドをはじめとする薬物の過剰摂取により、2016年1年間で6万4千人もの米国人が命を落としたと、トランプ米大統領は、2018年1月末に行った一般教書演説で述べている。
IX.1.1.物性
白色の結晶又は結晶性の粉末である。
[構造式]
[分子量]336.47
[融点] 85〜87℃
[溶解性]
なお、基本的な性状は結晶又は結晶性粉末であるが、テロでの散布手段を考えれば、液体や微細粒子も考えられる。即ち、空気中に微細粒子や液体のスプレー(エアロゾル)の形で、また水や食物への混入、農作物への汚染等が懸念される。
IX.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
(参考)ラット3.1mg/kg モンキー 0.03mg/kg
中毒作用機序
急性麻薬中毒の症状は、四肢、中脳、脳幹、脊髄に局在するオピオイドレセプターと過剰投与された麻薬との特異的反応である。しかし、麻薬の異常な大量投与の場合、麻薬はオピオイドレセプターを介さないで、発作を引き起こすといわれている。
多幸感、上脊髄鎮痛、呼吸抑制に関与する
δレセプター(N-アリルノルフェノゾシンなど):
不快感、幻覚、妄想、呼吸と血管運動の刺激に関与する
κレセプター(ケトサイクラゾシンなど):
脊髄鎮痛、縮瞳、鎮静、睡眠、呼吸抑制などに関与
体内動態
[吸収]
[分布]
分布容量:Vd=4L/kg
[代謝]
代謝物:デスプロピオニルフェンタニル、ノルフェンタニル
[排泄]
腎クリアランス=11.2mL/min/kg
半減期:t1/2=2~4 時間(母化合物)
IX.1.3.症状
痛覚脱失は、静脈注射や点滴では数分以内にピークが起こる。100μgの処方で、無感覚の時間は30分~60分続く。皮膚からの吸収は、数時間から数日続くこともある。飲み込んだ場合には、二段階の曝露が起こる。最初の2~3分で初めの曝露があり、2時間以上たって消化器からの吸収がある。呼吸器からの吸入による吸収は速い。
呼吸機能の低下が起こる。フェンタニルの静脈処方により、速やかに胸部筋肉の筋剛直(ウッドチェストシンドローム)が起こり、正常な呼吸が阻害されることが知られている。頭蓋内圧亢進や筋肉の硬化、けいれん等が、フェンタニルの使用の際に起こることが報告されている。
IX.1.4.治療
大きくは拮抗薬投与と呼吸管理が重要である。拮抗薬はナロキソン(ナルカン)0.4~2.0mgがオピオイドの過剰摂取において推奨されている。
注意:日本国内の製剤と米国の高用量製剤では、ナロキソンの含有量が異なる。また剤型も、日本国内はアンプル製剤のみであるが、米国では鼻用吸入キット、オートインジェクター、シリンジ製剤が販売されている。(表 日本国内のナロキソン製剤と米国の高用量製剤の比較 参照)
経過観察
IX.2.リシン(WA)
概要
ひまし油 (castor oil)の原料として年間 100万トン以上生産されているトウゴマの実 (Ricinus communis) に含まれる毒素。容易かつ安価に生成でき、毒性が高く、エアロゾルとして安定。生物兵器の一つであるが、毒素であり、ワクチンはない。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。化学兵器禁止条約では、サリンやVX等とともに表1剤に規定されている。米国CDCの生物テロ対処リストではカテゴリーBに分類。 WHOが2004年に発表した生物兵器に使われる恐れのある感染症である微生物 11 種,毒素 6 種の中の一つである。
世界中で栽培されるひまし油の豆(トウゴマ)から抽出され、比較的簡単に大量の毒素を得ることができる。毒素は蛋白複合体であり、熱や次亜塩素酸塩溶液に弱い。蛋白質なので抗原性があり、人ではアレルギー反応を起こす。トウゴマの種子を圧搾するとヒマシ油がとれ、絞りかすにリシンが残る。リシンは油に溶けないので、ヒマシ油の中には溶け込まない。絞りかすは肥料として使われ、モグラ退治用の農薬として製品化している国もある。第二次世界大戦中米国で生物兵器として開発され、毒性がきわめて高くソマンやVXと同等である(ホスゲンの40倍)。臭いがなく症状が徐々に現われるので、警戒されにくく戦場での検出方法が困難などの特徴あり。熱や衝撃によって活性を失うので兵器化には間題がある。
1978年ロンドン市内のバス停で、ブルガリアの亡命作家ゲオルギ・マルコフが何者かにこうもり傘の先端から大腿後面を撃たれた。数時間後から高熱がみられ、26時間後に血性嘔吐を繰り返し、不整脈・腎不全を併発し出血性ショックにて11日目に死亡した。剖検で、大腿後面から直径1.52mmの金属球が摘出され、リシンが検出された。2013年、アメリカで当時の大統領バラク・オバマ宛の手紙に混入されていたリシンを、シークレットサービスが発見。2015年、日本でも別居中の夫の焼酎にトウゴマから抽出したリシンを混ぜて殺害をもくろんだとして、殺人未遂の疑いで妻が逮捕された。2018年6月ドイツで猛毒のリシンを使った生物兵器の製造を計画した容疑でチュニジア人の男(29)が逮捕された。警察幹部は、「ドイツ初となる生物兵器を使った攻撃に向けた非常に具体的な準備が進められていた」と述べている。警察の特殊部隊が6月12日、ケルン(Cologne)にあるシエフ・アラー・H(Sief Allah H)容疑者の自宅アパートを急襲。見つかった「毒物」は後にリシンと判明した。容疑者は、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が発したリシン爆弾製造に関する指示に従ったとみられている。
IX.2.1.物性
精製されたリシンは、常温で固体、無味無臭である。
[分子量] 約65,000(糖蛋白質)
[溶解性]水にのみ溶ける。
IX.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
吸入曝露でのLD50は3-5 µg/kgであるのに対して、経口摂取では20 mg/kgである。
経皮からの毒性値は知られていない。
中毒作用機序
体内動態
[吸収]
IX.2.3.症状
リシンを経口摂取された患者は、嘔吐、下痢、腹痛、ショックを起こす。リシン毒素の合併症は、多臓器不全と播種性血管内凝固(DIC)である。
IX.2.4.治療
経口摂取後4時間以内なら、催吐が有効と考えられる。嘔吐・下痢で脱水が著しいので、水と電解質の補給が重要である。尿中排泄はほとんどなく、強制利尿は効果がない。遊離へモグロビンによる腎障害防止のため尿のアルカリ化が有効と考えられる。呼吸不全は酸素投与をし、必要があれば気管内挿管・人工呼吸で治療する。低血圧やショックでは、輸液を含めた全身管理が必要である。
汚染管理
IX.3.ノビチョク
概要
ロシア語で「新参者」を意味し、1970年代から80年代にかけてソビエト連邦が秘密裏に作った神経剤グループを指す。そのうちのひとつ「A230」はVXガスの5-8倍の殺傷能力を持ち、数分で人を死に至らしめる。液体あるいは固体であるとみられる。いくつかは、毒性の低い2種類の化学物質の状態で保存され、混ぜ合わせて殺傷性を高める「バイナリー兵器」だと考えられている。そのうち1種は化学兵器としてロシア軍での使用が許可されているという。こうした情報はロシアからの亡命化学者ミルザヤノフによって明らかにされた。数百の派生化合物があるとされ、毒性では、ノビチョック5、及び7が最強とされるものの、それがどの構造式のものかは明らかではない。なお、ミルザヤノフの著書にある構造式は、一部が意図的に改ざんされているという話もあったが、実際には正確であるという見方もある。もともと、NATOの標準的な検知器にかからず、個人防護装備を透過し、かつ使用者は安全に取り扱えることを目指していたものと言われる。
1992年、ロシアが化学兵器禁止条約;CWCに署名する直前という絶妙のタイミングで、モスクワの週刊誌に2名の化学者(フェドロフとミルザヤノフ)の手記が掲載された。これで、旧ソ連の新化学剤開発が70年代から90年代にかけて営々と続けられていたことが明るみに出た。このころ、西側の財政支援による旧ソ連の化学兵器生産施設の一般産業用への転換が進められていた。米国国防総省は早い段階からこの旧ソ連・ロシアのノビチョックに関連する動きを掴んでいたものと思われる。その同盟国である英国も同様である。化学兵器禁止条約の付表には、当該化合物そのものはない。従って、申告、査察、検証の対象とはならないという解釈もできる。一方で、CWCはその総則、締約国の一般的義務の中で、このような物質の製造、使用等を禁じており、その観点からは規制されているとの見方もある。英国首相テリーザ・メイは2018年3月、イングランドにおけるロシアの元スパイ毒殺未遂事件に使用されたと発表。ロンドン警視庁は同年7月4日、英南部エイムズベリーで6月30日に意識不明で発見された男女は、神経剤「ノビチョク」を浴びていたと発表。後に女性は死亡した。
IX.3.1.物性
常温で液体又は固体。
VX以上に気化しにくいと考えられる。
[構造式]
[分子量] 不明
[比重][融点][沸点][融点][蒸気圧][蒸気密度][揮発度][引火点]
[溶解性]いずれも不明
[環境汚染の持続時間]
IX.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
[中毒量] 不明
[致死量]
名称 | 半数致死量(mg) | 備考 |
タブン(GA) | 1,500 | |
サリン(GB) | 1,700 | |
ソマン(GD) | 350 | |
硫黄マスタード(HD) | 1,400 | |
VX | 5 | 10mgという文献もあり |
ノビチョク | 1以下? | 開発者の著書から推定 |
※数値は各文献により異なるのでここでは米軍FM3-11を主体に記述する。
※※液体に皮膚曝露した場合(70kg男性)
[刺激性] 不明
[発癌性] 不明
中毒作用機序
IX.3.3.症状
一般的に神経剤の液剤の少-中等量曝露では、局所の発汗、嘔気、嘔吐、虚脱感がみられるが、大量曝露では突然の意識消失、痙攣、無呼吸、弛緩性麻痺が認められる。皮膚への大量の液剤曝露時には、その効果は数分以内に引き起こされる。通常は1~30分の無症候性期間があるが、それ以降に突然次々と意識消失、痙攣、 無呼吸、筋弛緩などを発症する。ノビチョクの場合も、同様であろうと推察される。
IX.3.4.治療
「今回の治療のポイントは、早急な集中治療室への搬送、強力な鎮静措置による脳損傷対策、ポートン・ダウン研究所の専門家の助言だった。治療を続けるなか、オピオイドの過剰摂取は否定された。有機リン中毒、あるいは神経剤による中毒でよく見られる症状だった。病院の集中治療室の医師は、「神経剤による症状だと気が付いたとき、2人は助からないと思った」と語っている。強力な鎮静剤で脳損傷予防もはかられた。退院後にマスコミによる会見に登場したユリアさんの喉の気管切開痕からも、それがうかがわれた。スクリパリ親子の治療チームはAChEをいかにして活性化させるかに関心があったが、自然回復を待つしかなかった。赤血球AChE活性は、赤血球の新陳代謝率に従って1日およそ1%の割合で回復する。 組織中および血清AChE活性は、新しいAChEの合成によって回復する。酵素はいくつかの化学物質によって再活性化される。この物質がPAMなどのオキシム剤である。しかし、時間が経過し神経剤-酵素複合体がエージング(老化、不可逆的に結合)していれば、オキシムは無効となる。
経過観察
汚染管理
ノビチョク(第四世代神経剤)に関する補足資料として、以下のリンクを参照
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